2018年06月21日

斎王について ~ヒメとヒコ~


ある研究者に言わせると、斎宮制度最大の特徴はそれが「終わった」ことだという。なるほど。いわゆる”連綿と続く天皇の祈り”的な国体観は、細部の具体的な祭式の変遷や反日勢力の揚げ足取りをさておけば、歴代天皇の「本意」の継続性という一点において、決して嘘ではないと言えるだろう。しかし、その一貫した皇室の祈りの伝統の中で、よりにもよって、伊勢神宮に派遣される皇女という、幾重にも神聖かつ重要な意味付けが可能だろう制度が、南北朝の到来とともにあっさりと途絶し、そのまま現代まで(つまり明治維新においても)再興されることなく、「終わった」まま放置されているのは、確かに不思議でもあり、謎でもあるかもしれない。
もちろん、南北朝の動乱期であるから、政治的・軍事的・経済的・思想的に、さまざまな現実的困難があったことは確かだろう。しかし、戦国や武家の世を通して、いかに皇室の衰微・式微が嘆かれることはあっても、さまざまな皇室祭祀の復興が決してあきらめられたわけではなく、江戸時代になってから、実に数百年ぶりに復興された儀式などというのもいくつかある。裏を返せば、現実的な実施が不可能であっても、実施されるべきだという固い意思は数百年たっても揺るがなかった、一方ではそういう儀式や祭祀もあるのである。(伊勢神宮の式年遷宮にしても、慶光院の尼僧や、観光ガイドにはなぜかあまり載っていないが織田信長の尽力などで、戦国時代にも復興している。むしろ戦国の動乱期にこそ、地方の下級の実力者たち(実力はあるが家柄や権威が無い)が、朝廷の持つ「ソフトパワーへ」の憧れを強めたらしいことは、こちらなどでも見た通り)
戦国動乱から天下統一への時代の変遷は、天皇・皇室の権威にとっても、大きな試練であると同時に、起死回生の一大チャンスでもあったのではなかったか。この期間を通して、もしも、皇室に、朝廷に、伊勢神宮に、斎宮復興の固い意志があったのなら、それは決して不可能なわざではなかったようにも思える。にもかかわらず、斎宮は復活しなかった。復活させようという目立つ動きさえもなかった。のだとすれば、斎宮というその制度は、すでに時代に要請されなくなっていたと考えざるをえないように思う。別の言い方をするなら、「斎宮」という制度を必要とした社会的条件が崩壊した、あるいはすでに崩壊していたことがあからさまになった、のが(最後の斎王を派遣した)後醍醐天皇の御代だったのではなかったか。
それでは、そもそも、斎王・斎宮という制度を必要とした社会的条件、古代には確かに存在したにもかかわらず遅くとも南北朝期には名実ともに失われてしまったらしいその社会的条件とは、何だったか? 言い換えるなら、そもそも、斎宮制度は何のために創出されたのか?

ここから先は研究者でも何でもない単なるディレッタントの根拠のない妄想だが……

斎宮とは祭政が文字通りに一致していた頃の古代日本に存したという「ヒメヒコ制」の、皇室による一変奏であり、「ヒメ」と「ヒコ」による「祭」と「政」の分業が、やがて「天皇」と「臣下」による「権威」と「権力」の分担へと移行するなかで、「ヒメ」の存在が宙に浮いていった。そうした見えない歴史的水脈を内蔵してはいないだろうか?続きを読む
posted by 蘇芳 at 16:40|  L 斎宮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする