2018年08月05日

伊勢物語の虚実


実在の遠山金四郎はあんな人物ではない。したがって「遠山の金さん」には何の価値もないっっ!
実在の徳川光圀はあんな人物ではない。したがって「水戸黄門」には何の価値もないっっ!
実在の徳川吉宗は米将軍である、したがって「暴れん坊将軍」には何の価値もないっっ!
などなどなど……という人は普通は滅多にいないように(いないですよね? 今どきはわかったものではないので困りますが)、フィクションにはフィクションなりに自立的な価値があるでしょう。
とはいえ、それは虚構と現実をしっかり区別したうえでの話。
伊勢物語」に関しては「尊卑分脈」の時点ですでに高階師尚がひどい風評被害を蒙っているように、事実と虚構が混同される時代が長く続きました。フィクションをフィクションとして(現実と混同せず)楽しむためにも、一応、史実についても最低限いくつか確認しておいたほうがよいポイントはあるかもしれません。続きを読む
posted by 蘇芳 at 21:51|  L 「伊勢物語」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月09日

【動画】伊勢物語 第百二十五段 つひにゆく道

>今はただ恨みもあらじ諸人のいのちにかはるわが身とおもへば
は、こちらで見た別所長治、
>あらたのし思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし
は大石内蔵助、
>身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂
は、言わずと知れた吉田松陰、
>大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし
は阿南惟幾、
>我ゆくもまたこの土地にかへり来ん国に酬ゆることの足らねば
は東條英機。

あえてやや軽薄な形容詞を選ぶとすれば、いわゆる「カッコイイ」辞世は、枚挙に暇がありません。
「死」。それは肉体としての個の終焉であると同時に、その「完結」によって自己の生涯という「物語」をいかに意味づけるかという、文字通り一世一代の晴れ舞台でもあるのかもしれません。

ところで、このカテゴリでは思いつくままに「伊勢物語」について駄弁を連ねてきましたが……
歌仙と称えられる在原業平(に擬せられる昔男)、その生涯の最後には、いったい、どんな歌を詠んだでしょう?
何しろ「歌仙」サマであらせられますから、さぞやスバラシイ、後世の模範になるような感動的な辞世ヲ詠ンダニ違イアリマセンネ。続きを読む
posted by 蘇芳 at 21:54|  L 「伊勢物語」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月24日

【動画】伊勢物語 第百二段・百四段(斎宮後日譚) 追記:第七十段・七十二段・七十三段・七十五段


こちらで書いた通り、第六十九段をはじめとする伊勢の斎宮をめぐる物語群は、「伊勢物語」の構成上の(あくまで「構成」の上からの)転回点・ターニングポイントになっているように思います。
同じ二条の后の物語でも、第六十九段の前(第六十五段)と後(第七十六段)とでは、話の趣がまるで違っていることも、何度か言及した通りですが……
当の第六十九段のヒロイン斎宮(恬子内親王)にも、二つほど後日譚があり、二条の后と同様、やはり、すでになまめいた性愛の物語ではなくなっています。これもまた伊勢物語後半、「翁」の世界への突入を反映した挿話とも言えるかもしれません。続きを読む
posted by 蘇芳 at 20:21|  L 「伊勢物語」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月15日

【動画】伊勢物語 第八十二段 第八十三段 第八十五段 (惟喬親王)


こちらで書いた通り、第六十九段をはじめとする伊勢を舞台にした一連の章段は、伊勢物語全体のターニングポイントの様相を呈しています。
それ以前のなまなましい性愛の物語群とは打って変わって、第七十六段以降、「翁」の世界に突入した伊勢物語には、在原業平に擬せられる昔男自身の恋を描いた章段はほぼ見えなくなっています。(業平以外の男女の恋愛譚は多少はありますが)
老いさらばえて女性に相手にされなくなっただけ、と、言ってしまえばそれまでですが。
その代わり、より幅の広い人生の諸相が「歌」の主題として浮上してきます。文学的な興趣としては色恋沙汰に勝るとも劣らないとも言えるでしょう。
そもそも、有名な二条の后の物語の背景にはこちらで整理した皇位継承をめぐる派閥抗争が暗示されていますが……当の惟喬親王その人が実際に伊勢物語本文に登場するのも、この後半の「翁」の時代になってからです。続きを読む
posted by 蘇芳 at 21:14|  L 「伊勢物語」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月12日

【動画】 伊勢物語 第七十七段 第九十七段 第百一段


現代の感覚で本文を読んでも今一つピンときませんが、こちらで書いた通り、第六十九段をはじめとする伊勢の斎宮をめぐる物語群は、「伊勢物語」の構成上の(あくまで「構成」の上からの)転回点・ターニングポイントになっているように思います。
同じ二条の后の物語でも、第六十九段の前(第六十五段)と後(第七十六段)とでは、話の趣がまるで違っていることも、こちらで書いた通り。
また、その第七十六段以降は、二条の后以外の物語においても、なまめいた恋愛譚(もっというなら性愛譚)が中心だったそれ以前とは打って変わって、葬送や、長寿の祝や、誕生や、出家や、といった人生の諸相へのまなざしが前面に出てくるように思います。
その変化・対照のわかりやすい例として、摂関家の人々にかかわる(第七十六段以降の)章段を、いくつか覗いてみたいと思います。
こちらで軽くチェックしたように、在原業平に擬せられる昔男の若かりし日の二条の后との直情的な恋愛譚においては、「対立」構造が垣間見えていましたが……第七十六段以降においては、さて?続きを読む
posted by 蘇芳 at 21:35|  L 「伊勢物語」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月10日

【動画】 伊勢物語 第六十五段 → 第七十六段


こちらで見たように、「伊勢物語」冒頭数段、二条の后の物語は、物語類型の上からも普遍的に劇的で、なるほど人気があるのもうなずけますが、そこをあまりに重視しすぎると、肝心の「伊勢」の意味がよくわかりませんし、そもそも伊勢の国にたどりつくことさえ難しくなりそうです。
かといって、こちらで触れた第六十九段(~七十二段または七十五段)は、舞台は確かに伊勢ですが、それ単独で読むだけでは、二条の后に匹敵するほどの劇的な魅力とか面白さというものが、今一つハッキリしません。
どうやら、第六十九段にはじまる伊勢篇の意味を考えるには、その前後にまで視野を広げてみる必要がありそうです。
そこに何が描かれているか?
二条の后の再登場と、物語のトーンの変化です。続きを読む
posted by 蘇芳 at 16:18|  L 「伊勢物語」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする