2018年01月30日

権威と権力


前回書いた通り、承和の変とは、仁明天皇の御代に、恒貞親王が廃太子され、道康親王が立太子された事件。
道康親王の生母は藤原良房の同母妹。すなわち道康親王は、良房から見れば甥にあたる。
したがって、外戚としての権力確立を目論む藤原氏の陰謀~というのが通説であり、事実、そのとおりでもあるだろう。
しかし同時に、(これも前回書いた通り)、仁明天皇にとって、恒貞親王は従兄弟だが、道康親王は皇子であることも押さえておく必要がある。
恒貞親王を廃して、道康親王を立太子することによって、藤原氏は外戚として国政をほしいままにできる一方、仁明天皇は実子に皇位を継承させることがおできになる。
要は両者の利害は一致しているし、その「一致」のゆえに、事件は発生し、かくもスムーズに展開したのではないか。続きを読む
posted by 蘇芳 at 22:24|  L 「続日本後紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月29日

承和の変


承和の変と言えば橘逸勢とでも穴埋めしておけばそれで正解というクイズみたいな歴史教育が行われていなければよいが。
そこまで酷くなくても、平安時代の政変といえば、とりあえず「藤原氏の他氏排斥」と言っておけばそれですんでしまう風潮が強いような気がしないこともない。
学術文庫版「続日本後紀」の訳者・森田悌にしてからが、そのまえがきで、
仁明朝の一大政治事件である承和の変は、当時中納言であった藤原良房が企謀した疑獄事件の様相が濃厚である。良房が淳和天皇皇子である恒貞親王の皇太子位を廃し、同母妹順子の所生である道康親王の立太子を図ったと云ってよく、北家による擅権体制確立への基盤作りの一環であった。
と書いている。
しかしこの「淳和天皇皇子である恒貞親王」と「同母妹順子の所生である道康親王」という対照は、正確な対偶になっていないのではないか。前者は「天皇の皇子(男系)」だが、後者はあたかも「藤原氏の子供(女系)」であるかのような、ニュアンスのバイアスがある。「淳和天皇皇子である恒貞親王」に対して、なぜ、素直に「仁明天皇皇子である道康親王」と書かないのか?

こうした表現自体、要するに藤原氏の外戚化という面からのみ事件を把握する凝り固まった観点の所産であるようにも思えなくもない。
もちろん、別にその見方が間違いというわけではないだろう。
しかし日本は藤原氏の国ではない。どこまでも皇国(すめらみくに)である。にもかかわらず、事がその皇国の皇位継承にもかかわる事件だというのに、研究者がただひたすら「藤原氏の歴史」以外の何物でもないかのような語り口にのみ終始するのだとしたら、若干の違和感はある。続きを読む
posted by 蘇芳 at 22:35|  L 「続日本後紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする