2018年11月08日

慶長四年の立憲君主


こちらこちらで、後陽成天皇が勅諚を以て日本書紀神代巻を刊行せられたことに言及した。時に慶長四年。世に言う関ケ原合戦の前年である。
生前の秀吉の懇請も空しく、その没後、たちまち権力争奪の私闘を始めた諸大名に、国体の本義を思いだし、私利私欲に走らず、公の秩序の安寧のために尽くせ、と、お諭しあそばす大御心が、そこには込められていなかったか。
私見だが、これは、立憲君主の持つという「(臣下に)忠告を与える権利(※権限ではない)」の行使のように思える。続きを読む
posted by 蘇芳 at 14:54| 戦国~織豊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月07日

【動画】豊国神社


先だっての「近世日本国民史 徳川幕府 思想篇」を読んでいてふと思った。
聚楽第行幸、特に広く知られている一回目のそれが、関白就任≒名実ともに天下統一の完成を確認する、秀吉一世一代の晴れ舞台であったことは、言うまでもないだろう。しかして、一方の後陽成天皇や正親町上皇にとって、それはどのような意味をもつ出来事だっただろう?
階級闘争史観とかいう、下種な対立煽りのカルト信者は、秀吉の横暴だの何だのと事あるごとに不興や敵意の存在を暗示したがるかもしれないが……
日本中の大名に忠誠を誓わせた天下人が関白に就任した。ということは別の言い方をすれば、少なくとも形の上では朝廷に臣下の礼を取ったということであり、それを満天下に知らしめたということでもある。
秀吉が朝廷の権威を「利用」したと悪意を以て描写することはたやすいが、裏を返せば、並み居る大名を実力を以て切り従えた秀吉をして、なお、その覇権を安定的に確立するためには、朝廷の権威にすがる必要があったのだとも言えるだろう。
後陽成天皇にとって、というよりむしろ正親町上皇にとって、それが、それほど不愉快な出来事であったろうか?(自身が権力亡者であるがゆえに権威と権力の区別がつかない類のカルト信者にはそう思えるかもしれないが)続きを読む
posted by 蘇芳 at 21:51| 戦国~織豊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月01日

2018年01月28日

2018年01月27日

自称上総介


こちらで書いたように、織田信長というのは、表面的な行動においては、意外なほど尊王家としての事績が目立つ人物です。もちろん、その行動が本心からのものだったか、打算にもとづく猿芝居の類だったかといえば、議論の余地はあるでしょうが。
平泉澄や田中義成など、いわゆる皇国史観寄りの戦前の史家は、本心からの尊王家と見たがる傾向が強いらしくもありますが、戦後は「もちろん」皇室の権威を利用するための猿芝居にすぎなかったと断ずる向きが多いでしょうか。続きを読む
ラベル:戦国 織豊
posted by 蘇芳 at 21:09| 戦国~織豊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする