2016年05月11日

思想汚染


こちらこちらで見たような事情で、皇紀1418年(天平宝字2)八月一日、第四十七代淳仁天皇が即位あそばされます。
淳仁天皇の擁立に功のあった藤原仲麻呂は政権の座につき、新しく「恵美押勝」の名を賜ります。
短命に終わったこの政権が100点満点だったなどとは言いませんが、「舎人親王の皇子」を「藤原」が輔弼したてまつるというこの体制は、少なくとも、政権中枢に仏教カルトを招き入れた聖武天皇の御代に比べれば、日本の国柄にとっても不自然ではない、比較的穏当な政権になりうる可能性を秘めていたようにも思います。

ちなみに、巷間、あまり注目されることのない、淳仁天皇の偉大な業績のひとつは、対新羅政策の転換ではないかと思います。
即位の翌年、皇紀1419年(天平宝字3)九月四日、天皇は次のように詔されています。
近年、新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えることがない。彼らは租税や労役の苦しみをのがれるため、遠く墳墓の地を離れてやってきている。その心中をおしはかると、どうして故郷を思わないことがあろうか。よろしくそれらの人々に再三質問して、帰国したいと思う者があったら、食糧を給して自由に帰らせるように。(宇治谷孟訳、以下同じ)
こちらこちらで見た「法則発動」の御代に比べると、何と素晴らしい御見識ではありませんか(現政権にも是が非でも見習ってもらいたいものです)。
さらに同月十九日には、北陸・山陰・山陽・南海諸道に、船500艘を(いずれも農閑期を選んで、3年以内に)造ることをお命じになっていますが……その理由は「新羅を征討させるためである」と、「続日本紀」には明記してあります。
もちろん、征討したら征討したで、そのあとの面倒があり、かえって「法則」の禍を招く危険性もありますが……それでも、あの背信の半島に再び軍を差し向けようとされた事実だけでも、聖武・孝謙両帝の御代とは、かなりの違いが感じられるのではないでしょうか。
ちなみにこの年、大陸・唐も「安史の乱」で騒乱状態。日本が軍備を増強することはその観点からも正当な措置だったと思われます。

しかし、実際にはこの征伐は実施されなかったので、淳仁天皇が唐や新羅にどのような態度でお臨みになったか、最終的にはわかりません。
軍船完成予定の3年後、皇紀1422年(天平宝字6)は、淳仁天皇と孝謙上皇との不仲が、いよいよ顕在化してしまう時期に当たっています。元凶は言うまでもなく道鏡でした。続きを読む
posted by 蘇芳 at 02:41| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月09日

孝謙・称徳天皇の「疎外」


橘奈良麻呂の乱。それは、一般的な解釈通り、「藤原氏vs橘氏」という世俗的な権力闘争と見ることも可能でしょう。
しかし、両陣営それぞれの「系譜」に注目すると、別の対立軸がおぼろげに見えてくるように思えることは、こちらで考察した通りです。
それは、「藤原氏vs橘氏」という臣下の争いにとどまらず、「先帝派vs新帝派」というべき構造をも併せ持っており、多くの皇族もまきこまれておいででした。
そして、そのそれぞれの陣営が擁立した皇子に注目すれば、それはすなわち「聖武天皇指名の皇太子vs舎人親王の皇子」という対決でもあり、そこには「仏弟子・聖武天皇vs「日本書紀」編者・舎人親王」という思想的対立の図式さえ、透かし見ることが可能であるようにも感じられます。続きを読む
posted by 蘇芳 at 02:09| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月08日

「舎人親王の皇子」と藤原仲麻呂


奈良時代は政争に明け暮れた時代であり、反日捏造史観は、それをつねに「閨閥」と「権力闘争」という唯物的な観点から説明します。
しかし、これは本当でしょうか?
奈良時代について、通俗的には、不比等以来、藤原氏が営々と後の権勢の基盤を築いた時代であるように言われることもありますが、正史にはその肝心の不比等がほとんど登場しないこと、藤原四子が病没した後は大きく勢力が後退したことなどは、すでにこちらで述べた通りです。
藤原広嗣も敗死しますし、その後、奈良時代に権力の座についた「藤原」といえば事実上、仲麻呂一人だけというありさま。その仲麻呂も結局は道鏡に敗北するのです。
藤原氏不在の時期に権力を掌握し、悪政をほしいままにした仏教の存在を抜きにして、奈良時代を語ることはできません。
また、天皇御自らがカルトに等しい当時の仏教に傾倒された結果は、他の皇族方にも波及しないわけにはいかなかったでしょう。
たとえば、一般に、藤原氏の「他氏排斥」といわれる事件は枚挙に暇がありませんが、藤原北家が盤石の権力を誇った平安時代はさておき、奈良時代において、藤原氏に排斥された「他氏」というのは、具体的に、何氏と何氏でしょうか?
長屋王は「皇族」です。
橘氏は、皇紀1396年(天平8)に臣籍降下した「元皇族」です。
橘奈良麻呂の乱で拷問死された、道祖王、黄文王も、「皇族」でした。
恵美押勝の乱においても、数多くの「皇族」の血が流されています。
天皇が仏教に呪縛せられた時代の政争には、「閨閥」や「権力」という唯物的な観点だけからは説明できない思想的混乱があったのではないでしょうか。素人の管見ですが、そこには、「仏教」と「皇族」というファクターへの目配りが、どうしても必要になるように思えます。続きを読む
posted by 蘇芳 at 02:58| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月07日

法則再び


皇紀1387年(神亀4・西暦727)、第四十五代聖武天皇と光明皇后のあいだに第一皇子・基王が誕生され、生後三日で皇太子に立てられました。が、皇太子は二年後、数えわずか三歳で薨去されます。
聖武天皇には他に県犬養広刀自との間に安積親王がお生まれになっていましたが、藤原氏が総力を挙げて光明皇后を立后した当時の状況から推して、即位の可能性はほぼなかったことでしょう。
そこで、異例の措置でしたが、皇紀1398年(天平10・西暦738)皇女・阿部内新王が立太子され、史上初の女性皇太子となられました。
阿部内新王は聖武天皇を父とされる男系女性皇族であり、また後に聖武天皇の詔によって道祖王が皇太子と定められていますので、「中継ぎ」の原則からも逸脱はされていません。
しかし、これまでに即位された女帝が、先帝の后・母・姉というお立場から、急遽、一時的に皇位におつきになったのに対して、事前に皇太子というお立場で即位までの準備期間をお過ごしになったという点で、孝謙天皇の即位事情は、やはり、特異なものではありました。
元より、臣下の身で初めて「后」の位に登られた光明皇后を母とされたこと、父帝の遺詔を(道祖王廃太子・淳仁天皇廃位の)二度にわたって蔑ろにされたこと、道鏡事件を引き起こされたこと、などなど、異例づくしの天皇であらせられました。続きを読む
posted by 蘇芳 at 01:48| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月04日

【動画】皇后陛下のご養蚕


125代にも及ぶ御歴代天皇のすべてが有能な政治家であらせられたと考えるのは非現実的であり、贔屓の引き倒しというものでしょう。
そもそも、天皇とは単なる「政治家」でしかないようなチンケな御存在でもありません。

人格の高潔さは必ずしも政治的有能さを結果しはしませんが、逆に言うと、人格の高潔さは政治とは無関係な価値を主張しうるものでもあります。
こちらでも述べたように、天皇は英明だから天皇なのではなく、天皇だから天皇であらせられるのです。

第四十五代聖武天皇も、仏教に帰依し、僧侶を重用し、悪政をほしいままにさせるという過ちをおかされましたが、しかし、それでもなお、天皇は天皇であらせられました。続きを読む
ラベル:天皇 続日本紀
posted by 蘇芳 at 02:35| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月03日

法則発動


「続日本紀」皇紀1409年(天平二十一)、
二月二十二日 陸奥国からはじめて黄金を貢進した。そこで幣帛を奉って畿内・七道の諸社にそのことを報告した。(宇治谷孟訳、以下同じ)
とあります。
聖武天皇の御代にしては珍しく「諸社」への奉幣が行われていますが、油断禁物。
この「黄金」というのは大仏に使うためのものです。
しかも、同年四月一日、天皇は次のように詔されています。
三宝の奴としてお仕え申し上げている天皇の大命として、盧舎那仏の御前に申し上げよう、と仰せられます。この大倭国では天地の開闢以来、黄金は他国より献上することはあっても、この国にはないものと思っていたところ、統治している国内の東方の陸奥国の国守である、従五位上の百済王敬福が、管内の小田郡に黄金が出ましたと申し献上してきました。これを聞いて天皇は驚き喜び貴んで思われるに、これは盧舎那仏がお恵み下さり、祝福して頂いた物であると思い、受け賜わり恐まっていただき、百官の役人たちを率いて礼拝してお仕えすることを、口に出すのも恐れ多い三宝の御前に、かしこまりかしこまって申し上げますと申します。
続きを読む
posted by 蘇芳 at 01:40| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月02日

大仏と八幡神


こちらでも述べたように、八幡神は仏教と縁の深い神です。
そもそも宇佐八幡宮が現在の場所に創祀されたのは、皇紀1385年(神亀2)、聖武天皇即位二年目のことでした。勅願だったと言われています。続きを読む
posted by 蘇芳 at 01:29| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする