2016年04月20日

壬申の乱


八紘一宇の理念を提唱された初代神武天皇にはじまり、唐による侵略の危機に敢然と立ち向かい「日本」の国号をお定めになった天智・天武両天皇の御代に至る「日本書紀」は、政治思想的には、「国民国家・日本」の自覚と宣言の書と言って良いのではないでしょうか。
そして、皇道と神道とが不可分のものである以上、それは同時に、宗教思想的には神道崇敬の書とならざるをえないように思います。

思えば、「日本書紀」の扱う時代において、日本に最も大きな災いの根源は、多くの場合、朝鮮半島であり、仏教もその半島国家からもたらされました。
半島国家そのものについては、白村江以後、縁が切れましたが、仏教とそれを奉じる者たち、その後も国内で活動しつづけます。
「仏教勢力」vs「尊皇敬神の志士」という構図は、大化改新の後も、なお、尾を引き続けているように見えます。続きを読む
ラベル:日本書紀 天皇
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2016年04月19日

【動画】白村江の戦いと国民国家・日本の誕生


武田・上杉は、兵を用ふるに巧にして、利を収むるに拙なり。織田・豊臣は、兵を用ふるに拙にして、利を収むるに巧なり。
頼山陽「日本政記」
別に頼山陽を引くまでもなく、戦争というのは武力を以てする外交であり、何回勝っただの何人殺しただのという目先の数字より、政治的獲得目標を達成したかしなかったかが問題です。戦術は戦略の手段にすぎず、戦略は政略の手段にすぎない。
帝国陸海軍は事実上世界最強でしたが、伊藤博文はじめ、陸奥宗光、小村寿太郎らの外交力なくして日清・日露の勝利はなく、第一次大戦の殊勲者は大隈や加藤ではありえても原や山縣ではありません。昭和においても帝国陸海軍は依然として精強無比でしたが、惜しむらくは外交力たるやスパイと官僚主義に毒されて惨憺たるありさまだったことが最大の敗因ではないでしょうか。
古代においても、この「戦争」の現実は何ら変わることはないでしょう。
白村江の「敗戦」の意味についてはすでにこちらでも述べましたが……その得失をもう一度確認しておきましょう。続きを読む
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2016年04月17日

「史上初の重祚」


こちらで「史上初の譲位」を行われた皇極天皇。
孝徳天皇の崩御後には、「史上初の重祚」をも行わせられます。
皇紀1314年(白雉5年・西暦654年)、第三十七代斉明天皇と申し上げます。続きを読む
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2016年04月15日

「史上初の譲位」


乙巳の変のあと、皇極天皇は「史上初の譲位」を決行せられます。
「しじょうはつのじょうい」と暗唱してしまえばそれまでですが、それがここで行われたということにはそれなりに重大な意味があるでしょう。
天皇が位を譲られたということは、もはや「天皇」でいつづける必要がなくなったということであり、果たすべき「役割」を終えられたということであると言えます。
裏を返せば、それこそは、「女帝」の役割が何であったのかを、逆照射的に明らかにしてくれています。続きを読む
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2016年04月14日

【動画】乙巳の変


中大兄皇子と中臣鎌足が、「逆賊」蘇我蝦夷・入鹿を誅殺した、というのは誰でも知っています。
そうして言葉にしてしまえばそれだけですが、何といっても欽明天皇の御代の崇仏論争からの因縁の決着ですから、そこへ至るまではさまざまな伏線がありました。
国内事情だけに限っても、
和魂漢才
十七条憲法
第三十三代推古天皇
死せる厩戸、生ける蘇我を走らす
皇道と神道
と、五記事も贅言をつらねてきた由縁です。

天皇の外戚として権力を握った蘇我氏が、天皇弑逆の大逆を犯し、十七条憲法があらためて成文化した尊皇の「法」がその矛盾を浮き彫りにする中で、反蘇我の「空気」が醸成されていき、蘇我蝦夷も一時の自重を余儀なくされつつ、いよいよ古人大兄皇子への「中継ぎ」の目途が立ったと油断したせいか、増長を極め、ついに蘇我入鹿が山背大兄皇子を自害に追い込むという悪手によって、いつ討たれても不思議はない「空気」を醸成してしまいます。

権力というものはただでさえ嫉妬を招きやすいものです。そのうえ、馬子に弑逆された崇峻天皇は、馬子の甥でしたし、入鹿に死に追いやられた山背大兄皇子は、馬子の孫、蝦夷の甥にあたりました。天皇・皇族をたやすく殺害するのも畏れ多いことなら、血族をたやすく殺害するのも人倫に反しています。皇族や他氏はもちろん、蘇我氏の内部からも、蝦夷・入鹿に敵対する者があらわれたとしても、おかしくはありません。
現在、国際社会では「ブルーチーム」と「レッドチーム」の編成が進んでいるともっぱらの噂ですが……乙巳の変の直前にも、似たような「チーム分け」「敵味方識別」が行われていたようです。続きを読む
ラベル:日本書紀 天皇
posted by 蘇芳 at 01:39| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月13日

皇道と神道


こちらで述べたように、十七条憲法があらためて成文化した尊皇の「法」は、日本のコモン・ローによく合致しており、推古天皇による「反撃」の根拠ともなりえたかもしれません。
その結果、馬子の没後、蘇我蝦夷が群臣の「空気(≒コモン・センス)」に逆らうことができず、敏達天皇系の舒明天皇の即位を見ることになったのは、こちらで見た通りです。
しかし蝦夷もさるもの、再び外戚の地位を奪還するため、蘇我氏の母を持つ古人大兄皇子を皇位につけるべく、隠忍自重の日を送り……女帝による「中継ぎ」を要請したのも、古人大兄皇子の成長を待つためだったであろうことも、上のリンク先ですでに述べた通りです。
その「隠忍自重」のゆえでしょうか、「日本書紀」における第三十四代舒明天皇・第三十五代皇極天皇の御代の記述は、最初の舒明天皇の即位事情と、最後の乙巳の変のころを除けば、政治的には意外と平坦です。
そのかわりに目立つのは、相次ぐ旱魃、洪水、日蝕、彗星、台風、地震などなど、災害や凶兆の記述です。続きを読む
posted by 蘇芳 at 02:34| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月11日

死せる厩戸、生ける蘇我を走らす


厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子は、表面的には、生涯、争い合うことはありませんでした。しかし、太子の定めた十七条憲法が、やがて遅効性の毒のように蘇我氏を追い詰めていくことになるのは、こちらで述べた通りです。
二人は最初から最後まで肝胆相照らす盟友でありつづけたのでしょうか。それとも、いつしか密かに敵対するようになっていたのでしょうか? 「日本書紀」の記述からは判断しづらいところです。
ただ、馬子の子孫と太子の子孫の「その後」を考えてみれば、二人の因縁について状況を整理しておくことは、無駄ではないでしょう。続きを読む
ラベル:日本書紀 天皇
posted by 蘇芳 at 02:32| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする