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動画概要:
2020/03/25
今回は「西南戦争」について学びます。
国のために命をかけて明治維新をやりとげた同志・西郷隆盛と大久保利通。家も近く子供のころからの親友だった二人は何故、戦うことになってしまったのか?
日本国内最後の内戦、西南戦争を学びます。
西郷とくれば大久保、大久保とくれば西郷、と、ワンセットのイメージが強いですが。。
当ブログで何度もくりかえしているように、留守政府で西郷がもっとも親しくしていたのは板垣退助ですし。
西郷は、佐賀の乱や神風連の乱についても、(呼応して決起するまでには至りませんでしたが)、大きな期待を寄せて成り行きを見守るような書簡を残してはいるようですし。
西南戦争には県外の民権派からの参加者も多かったと言いますし。
板垣を担いで西南戦争に呼応しようという動きは土佐をはじめ各地にあったようですし(これも実現には至らず、担がれそうになった板垣の本音についても諸説あるようですが)。。
大久保を斬った島田一郎らによる斬姦状にも次のような文言が含まれています。
一郎等方今皇国の時状を熟察するに、凡政令法度、上、天皇陛下の聖旨に出るに非す、下衆庶人民の公儀に由るに非す、独り要路官吏数人、臆断専決する所に在り、
公儀は国是を定むる所以、民権は国威を立る所以なり、今之を途絶し、之を抑圧するは、則国家の興起を阻隔するなり、つまるところ「有司専制」「民権則国権」。
不平士族不平士族と言いますが……
島田たちもまた、土佐立志社主催の全国愛国社集会などにも出席していたとかいないとかいう、民権派でもあるのですね。実は。
Wikipedia:
・島田一郎明治8年(1875年)8月23日の土佐立志社が開いた全国愛国社集会に加賀代表で参加する。・愛国社 (1875年-1880年)結成後間もなく、板垣が参議に復帰した上、参加者のうち、西南戦争で西郷軍に参加した者も多く、自然消滅した。
西南戦争は、明治時代初頭の最大の歴史的事件ともいうべきで、当ブログでもすでに何度か触れていますが。
西郷側の文脈でいえば、民権運動との関連、アジア主義への影響、という二つの側面を押さえておかないと、それこそ、西郷×大久保のナニワ節的BLネタで終わってしまいかねない危険があるような気はしなくもありません。
(そもそも一般論として、西南戦争の敗北を受け、武力闘争路線から、平和闘争路線へかじを切ったのが自由民権運動とも言われているはずですが……実際の歴史記述においては、どうも、そのあたりの関連への目配りが弱くなりがちな気がしないでもないのは、気のせいか)
上の動画でも、チラッと、大久保が日本の「官僚制」の創始者として言及されていますが、西郷・板垣が民権の側に立ったとすれば、それを抑圧した大久保は「何」の側に立ったのか?
明治の偉人を育てた江戸の教育が廃止され、昭和の汚役人を作る官吏養成システムが導入されたのが明治時代と言って言えないことはない気もして……日清日露に勝つための非常時体制としてはそれも良かったのかもしれませんが。前回書いたように、西郷的なものと大久保的なものには、内政と外交の両面において、それぞれの功罪・一長一短があり、それを把握しておく必要はあるようにも思うのです。
このあたり、官僚主導国家の弊害は、イノベーションサミットやら政党DIYやらにかかわっている神谷さん的にも、あるいは、他人事ではない問題をはらんだトピックではないのかという気もしないでもなく……まあ、部外者の気のせいならそれでいいですが。
昔は日本に茶会的なリバ保守思想をそのまま普及するのが良いと思ったのだが、それは無理だと悟りどうするかを考え直したわけで。そうすると、吉田松陰が一君万民と唱えたり、自由民権運動が有司専制批判したり、と、結局は昔の人は同じこと悩んだんだなと悟る。これは宗教改革も同じ理屈で普遍性がある
— ワタセユウヤ (@yuyawatase) March 23, 2020
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