先だってこちらで突発的に水戸藩に言及してみたが。
思想は尊皇、血統は佐幕。というのは何も水戸藩に限った話ではない。
こちらなどで何度も考察してきたように、そもそも幕藩体制そのものが”尊皇”の上に構築されている。思想は尊皇、血統は佐幕というのは、水戸に限らず親藩ならどこでも同じではなかったか。
水戸では特にその”理論化”が進んだというだけのこと。そして、水戸と並ぶ理論化のもう一つの雄は、これもまた幕末の政局の一つの焦点となった会津藩だったように思う。
会津松平家初代・保科正之は、徳川家康の孫。徳川秀忠の子。徳川家光の弟。水戸の徳川光圀からは従兄弟に当たる。
この保科正之が、吉田神道の吉川惟足や崎門学の山崎闇斎に傾倒し、垂加神道の成立に間接的に寄与していることは、当ブログでは何度も触れてきた。
仏教を極端に憎悪し、儒教と神道を直結し、厳格の中にも厳格を極めた闇斎流の尊皇思想は、水戸学とも影響し合っているし、幕末の志士たちにも大きな影響を及ぼしている。宝暦事件で幕府に弾圧された竹内式部も崎門・垂加神道の徒であったし、つづく明和事件で弾圧されたのも、その竹内の教えを受けた尊皇家たちだった。
思想は尊皇、血統は佐幕、という、幕末に水戸を分裂・抗争・崩壊へと導いたのと同じ素因は、会津藩にも内包されていたと考えることもできる。
しかし、幕末の会津藩は、水戸のような分裂には決して陥ることはなかった。
いわゆる将軍継嗣問題への関与が浅かった(したがって安政大獄の被害が少なかった)ことや、京都守護職に任じられたことなど、現実的な理由もあったかもしれないが。幕末というのは思想によって現実が暴力的に変革された時代でもある。会津藩のあり方が単純に「現実」だけに規定されていたというわけではあるまい。むしそその困難な現実への対処の方向性を決めたものとして思想的背景がより重要性を増した時代だったとも言えるかもしれない。
尊皇思想と並んで、よく指摘される、会津の佐幕思想の集大成、会津武士道のアルファにしてオメガが、初代・保科正之の残した「家訓」である。
会津若松観光ビューロー:家訓十五条この第一条は、幕府・将軍家に対する徹底した忠節を説いたものとして有名である(現代の感覚では違和感があるが「大君」というのも天皇ではなく将軍を指すらしい)。暗黙の含意まで含めれば異論もないではないようだが、異論はどこまで行っても異論にすぎない。徹底した尊皇家だった保科正之は、同時に、徹底した佐幕家でもあった。一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
尊皇と佐幕を対立的にとらえる俗説からは、これは、やや理解しにくい事情かもしれない。
しかし、くりかえすが、こちらなどで何度も考察してきたように、幕藩体制そのものが、そもそも、尊皇思想を根拠として構築されている。ただ、この場合の尊皇思想とは、こちらやこちらで書いた二つの潮流のうち、統帥権的ではなく機関説的なもの、専制君主的なものではなく立憲君主的なものだったはずではあろうか。
水戸学にせよ、崎門学にせよ、また、赤穂事件~吉田松陰~乃木希典などとの関連で今なお注目される山鹿素行(山鹿流軍学)にせよ、幕末の志士に影響を与えた尊皇思想のひな型が、実のところ、すべて、三代家光までの幕政初期に出揃っているとも言えるのはこのためではないか。(後年、吉田松陰によって再評価された熊沢蕃山なども江戸時代初期の人だ)
江戸時代初期において、尊皇思想と幕藩体制は、決して、矛盾するものではなかった。幕末においてそれがあたかも矛盾するかのように見えるようになったのは、あくまで現実的・政治的な”都合”(≒ご都合主義・機会主義)によるものであって、純思想的なものではなかったとも言える。だからこそ、幕末動乱の初期において、ほぼすべての改革の眼目が、あくまで「公武合体」でもあったのではないか。
江戸260年の尊皇思想の、本来、それこそが保守本流だったのだと、当方などには思える。
こちらで、武士の忠誠の対象として「藩」「幕府」「朝廷」の三つを挙げたが、立憲君主制的な幕藩体制は、この三つの忠誠を整然たる階梯として秩序づける。
藩士は藩主に忠誠を尽くし、
藩主は幕府に忠節を尽くし、
幕府は朝廷に忠節を尽くす。
保科正之の「家訓」もまた、この位階秩序の中において見るべきではないか。
幕府が朝廷に忠節を尽くすかぎりにおいて、個々の藩主・大名にとっては、幕府に忠節を尽くすことが、すなわち、朝廷に忠節を尽くすことになる。「直属」の上司の命に服従する、軍隊的・お役所的・会社組織的な「統制」を考えれば、現代人にもさほど理解しにくい話ではないのではないか。
つまるところ、そもそもの初めから、公武合体、むしろ公武一体こそが、幕藩体制そのものであり、その幕藩体制が想定する統制の精華は、まさに、「家訓」的なものにならざるをえない。
その意味で、保科正之の「家訓」、会津武士道の体現者こそは、幕藩体制下におけるあるべき武士の姿≒「武士の鑑」にほかならない、と言えるのではないだろうか。
幕藩体制が健全に存立する限りにおいて、すなわち上記位階秩序の存立を前提しうるかぎりにおいて、この「家訓」もまた有効に機能しつづけることができる。
その有効性はそれ自体、「家訓」の権威を高め、神聖化していくことにもなるだろう。
それは会津藩の統治の根本精神を表す「不磨の大典」として、藩の上下一切の行動を掣肘する「法」となる。
藩主すらその「法」の権威に逆らうことは許されない。むしろ藩主は藩主であるがゆえに、さらには世襲の武家において、藩主とはすなわち「家訓」を定めた保科正之の”子孫”であるがゆえに、誰よりも厳格に「家訓」への服従を要求される。
万一、「家訓」に背くような藩主が現れれば、家臣たちによって、たちどころに「押込め」られてしまいかねない、それが会津の士風というものかもしれない。
会津の現実がそこまで極端なものだったかどうかは寡聞にして知らないが、理論的には、そうなるはずであり、そして、そこまで行けばもはや藩を統治しているのは個々の藩主ではなく、「家訓」そのものであるとも言える。まさしく「法の支配」である。
歴代の個々の会津藩主は、「家訓」の継承者、初代保科正之の精神の体現者としてのみ、存在しうる、とも、言えるだろうか。何なら、「藩主は藩の”機関”である」とも、言ってよいかもしれない。
(立憲君主制的な幕藩体制は、朝幕の関係においてばかりか、幕府自体の存在様態においても、また個々の藩のそれにおいても、立憲君主制的な「君臨‐統治」関係の入れ子を形成しうるのだろうか。天皇機関説・将軍機関説・藩主機関説、理論的にはすべて同型のシステムとして成立しうる気がする)
幕末の会津藩主・松平容保の進退についても、このような会津藩主としての相の下に、評価すべきものではないだろうか。
容保公もまた、まさに会津藩主であるというそのこと自体によって、まぎれもなく、幕藩体制下における「武士の鑑」であり、むしろ「武士の鑑」であるより他のあり様を許されていなかったように思われる。
(野暮を承知で付け加えると、容保公は養子でもあるので、なおさら意識的に会津の風に染まる努力を重ねていたかもしれない)
そして、ここでいう「武士の鑑」とは、上で縷々述べてきたように、イコール「公武合体」の申し子でもある。
「家訓」に忠実な「武士の鑑」である限り、他の選択(討幕)などは、「原理的」にありえない。
それは一人容保公の意思ではなく、「家訓」の意志であり、藩の意志である。公武合体は藩の存在の「前提」であって、その「前提」なくして幕府も藩も存在しえないのだから。
これが、同じ尊皇の親藩でありながら、会津が水戸のような分裂に陥ることのなかった理由であり、容保公が孝明天皇に深く寵愛された理由であり、同時に、会津藩の発想が幕藩体制の「外」に出ることのできなかった理由、少なくともその一つでもあるように、(あくまで無学非才の妄想ながら)、当方などには思われる。
幕府は確かに尊皇のシステムだった。
しかし、あくまでバリエーションの一つにすぎない。
尊皇のシステムは幕府だけではない。
太政官制でも議院内閣制でも、尊皇のシステムたることは可能だ。
ならば、取り換えても構わない。
外様ならそのように発想することもできる。
だが、会津にそのような選択肢はありえない。
藩主容保はじめ、会津武士こそは、幕藩体制下における「武士の鑑」だったからだ。
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ラベル:江戸時代