2020年02月14日

水戸藩の場合



江戸時代の武士の忠誠の対象は三つある。
「朝廷」「幕府」「藩」
どれに比重を置くかは時代や立場や生い立ちによって変わってくるだろうが、一般論としては、上位の忠誠対象ほど抽象度が高く、リアリティが希薄になっていく。
だからこそ、純思想的にイデオロギッシュに原理主義的に過激化しやすいという面もあるかもしれないが、大勢がそうなるに至るにはなおいくつもの条件をクリアする必要があるだろう。
いわゆる尊皇の志士も含めてほとんどの武士にとって、血肉の通った、リアルな、第一義的な忠誠の対象は、「藩」だったはずだ。
国論の大勢が公武合体論だった頃はもちろん、討幕論が強くなった頃でも、大方の志士がまず第一に考えたことは、新政権における自藩の影響力を確保・増大させることであって、朝廷のためなら藩や藩主などどうなっても構わないとまで見切りをつけた原理主義的尊皇主義者などは、まず滅多にいなかった。討幕の趨勢が進むにつれ、口に原理主義を唱えるものは増えていったかもしれないが、それでも、なお、本心はわかったものではない。

しかし、もちろん、そういう原理主義者がいなかったわけではないだろうし、そういう原理主義者が生まれやすい精神的・思想的・学問的・政治的・社会的土壌というものを考えてみることもできるかもしれない。

尊皇の志士。別の言い方をすれば、京の都などその目で見たこともない田舎侍たちにとって、尊皇思想とは「学習」によって身につけざるをえないイデオロギーであり、抽象であり、理想であり、夢想でさえあるかもしれない。
その思想に、より強く感化され、原理主義にまで到達するためには、理想からかけ離れた現実の社会条件による動機付けなどが必要になる場合もあるかもしれないが、まずもってその「学習」の機会が与えられなければならないし、さらにはその「学習」が容易かつ盛んな環境の用意されているほうが好都合に違いない。
つまるところ、当たり前の話で恐縮だが、尊皇思想の「本場」ともいうべき学問的環境のある藩においてこそ、尊皇の志士が多数輩出され、かつ、その一定数が過激化・原理主義化しやすい条件が準備されたとしても、不思議はない。

義公・徳川光圀以来、水戸学のそれこそ「本場」として、代々尊皇思想を育んできた水戸藩が、幕末動乱の初期において、維新のいわゆる「魁」となったことは怪しむに足りない。
しかし同時に、尊皇派として、もっとも早く台頭した水戸藩は、もっとも早く脱落した藩でもあったかもしれない。

水戸は水戸学の本場である。思想的に尊皇である。
と同時に、水戸は御三家である。徳川である。血統的に佐幕である。
この両者の立場を両立する選択肢は、公武合体論であり、実際、将軍継嗣問題にせよ条約勅許問題にせよ、水戸が烈公斉昭の下で「藩」として統一行動をとりえた時期には、当然、その路線で話が進んだ。将軍継嗣問題における水戸の立場は、要するに、斉昭の息子を将軍に擁立しようというにあって、討幕などという運動からはもっとも遠い対極であるし、薩摩や越前、土佐など、この時期の水戸の「同志」も同様である。

しかし、安政の大獄以後は、どうだろうか。
安政の大獄は、一橋派という、まさにこの「同志」たちを第一義的なターゲットにしている。

同じ「尊皇」の看板を掲げていても、依然として公武合体に賭けつづける者たちがいる一方で、討幕へと舵を切り始める層も出始めただろう。逆に怖気づいて急速に保守反動化するケースもあったかもしれない。
藩論全体を急速に転回させた藩もあれば、同じ藩内で深刻な路線対立に陥ったケースもあるだろう。一般論として、それぞれの藩の徳川との距離感や、藩内でも立場の上下によって、傾向は左右されただろうし、大獄の「被害」の程度にもよったかもしれない。
吉田松陰を殺された外様の長州。
橋本佐内を殺された親藩(一門)の越前。
直接の弾圧の最大の標的である御三家・水戸。
それぞれに事情が異なる。
外様ながら藩祖以来の徳川の恩顧に佐幕的な傾向が強い上層部と旧長曾我部の流れをくむ下級藩士との間に潜在的分断をかかえる土佐や、大獄とは無関係にカリスマ的指導者・斉彬を失った薩摩なども、それぞれにそれぞれなりの紆余曲折を経ていくことになろう。(薩摩というか西郷・精忠組にとっては月照事件も重大か)

水戸に話を戻せば、尊皇思想のイデオロギー的本場であると同時に、血統的には最も佐幕たるべき御三家の水戸は、藩論の分裂・対立に、他藩以上に原理的な深刻な対立要因を抱えている。どちらも妥協できない。
しかも、烈公・斉昭は、永蟄居のあげく、大獄の翌年には急逝して、院政を敷く間もなかった。
残された藩主慶篤には、元より父ほどの気概も野心もない。藩の存続のためにひたすら幕府に恭順するのみである。そもそも、大獄によって過激派が弾圧、一掃された後に、慶篤の手元に残された家臣たちは、必然的に、斉昭とその取り巻きたちの過激路線を苦々しく思っていたか少なくとも距離を取っていた、保守派が、その主力になるしかなかろう。父斉昭とその支持者たる過激派の「不始末」の尻拭いこそが、慶篤の任である。彼のおかれた困難な状況からすればやや酷な言い方ではあるが、いわば、慶篤は藩主としてすべての派閥を超然して君臨する権威ではなく、単に一派閥の領袖であるにすぎないかのようにさえ、見えなくはない。それで、ただでさえ他藩より深刻な藩論の分裂を収拾することなどできるはずがない。

藩論の分裂に悩んだ藩は、水戸以外にも多数あっただろうが、山内容堂の特異なリーダーシップの下で一時的に勤皇派を重用しやがて切り捨てた土佐はもちろん、「俗論派」と「正義派」の正面衝突にさえ至った長州でさえ、その両派がなお藩主への忠誠を失っていなかったのに対して、水戸慶篤は原理主義化した勤皇激派の忠誠心をもはやほとんどつなぎとめることができなくなってはいなかったか。

深刻なリーダーシップ不在の状況下で、水戸は、幕府に専一恭順する保守派(諸生党)、勤皇過激派(天狗党)、勤皇穏健派(鎮派)に分裂、抗争し、疲弊し、維新運動の一線から脱落していく。
周回遅れで慶喜が将軍職に就いてしまって以後は、なおさら、身動きが取れなくなったとも言えるだろうか。
天狗党騒乱の後の水戸は、倒幕運動はもちろん、もはや公武合体運動にさえ、「藩」としてまとまりをもった形で参与することはなくなっていく。せいぜい、天狗党の残党が個別のテロにかかわっていくくらいだっただろうか。
(そもそも、桜田門外の変の頃から、水戸勤皇派の行動は「テロ」ばかりだったし、「テロ」であるがゆえに、政局にインパクトを与えながらも、捨て石として切り捨てられていくよりなかった。そういえば、慶喜追討・討幕の口実のひとつになった、江戸城下における、庄内藩と薩摩藩の衝突。このとき薩摩の手先として城下で狼藉を働き、治安部隊を挑発した浪士たちの主力も、水戸の残党だったという話があった気がするが、薩摩の斉彬とは対等以上のパートナーだった斉昭の家来たちの、それが最後に行き着いた場所かと思えば、なかなかやるせない転変ではある)

あげくの果て、戊辰戦争においてさえ、水戸はなお分裂しつづけ、諸生党と天狗党残党は、最後まで殺し合った。
Wikipedia:弘道館戦争
それもまた藩論を統一できなかった宿命か、と思えば、物悲しい話ではある。
(それとも、あるいは、国事のためなら藩や藩主などどうでもいい、むしろ邪魔でさえありうるという、原理主義的尊皇イデオロギーの帰結としては、藩の崩壊もまた、必然であり本望でさえあるべきはずだとでも、いうべきだろうか?)

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ラベル:江戸時代
posted by 蘇芳 at 16:27| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする