2020年02月14日

【動画】王政復古と江戸城無血開城【CGS 斎藤武夫 歴史の授業 第48回】


ChGrandStrategy から。


動画概要:
2020/02/12 に公開
時は幕末…大政奉還を経て、新政府が誕生しようとしています。将軍・徳川慶喜は地位をそのままにリーダーになろう画策します。
しかし西郷、大久保はそれを許しません。新しい日本を作るために王政復古を起こしました。
そしてついに江戸城は開城される…では、一体なぜ260年続いたこの幕府を無血開城できたのでしょうか?

江戸城無血開城というと西郷さんと勝さんですが。
その勝さんを派遣したのは徳川慶喜。
それまで、慶喜はまったくといっていいほど勝を重用していなかった気がしますが、この時は突然これだけの大仕事をまかせているわけで。
不思議といえば不思議です。
慶喜というのも間違いなく頭はよかった人でしょうから、その結果かもしれませんが、ものすごく「合理的」にちゃぶ台をひっくり返すというか……情勢判断の上でわりと華麗なる「掌返し」が平気でできる人だったかもしれないという気はします。

慶喜が勝を使う/使わないの転換点とパラレルだったのが、つまり、鳥羽伏見の戦いであり、大阪城脱出という転換点だったでしょうか。
(自分主導の新政府を作るうえでは勝は不要だった。しかし、鳥羽伏見の「後」を生き延びるためには、勝が必要だった?)

それまでは、薩長の先手を打って大政奉還を行い、外国使臣を集めて、外交権は今後も従来通り徳川が行使すると宣言したりもしていたはずが。
小御所会議の結果を受けて、越前や会津と梟首談合、とりあえず京を脱出して大阪城に入り、ずるずると引きずられるような形で鳥羽伏見。このあたりも解釈はいろいろあるかもしれませんが、慶喜の行動には迷いも見える気はします。
しかし鳥羽伏見の敗戦のあとは一転、ただひたすらな恭順姿勢に転じるわけで、ネットスラングでいうところのいわゆる一つの”ジャンピング土下座”というか何というか、見切りの早さは天下一品というべきかもしれません。

負けたと見切ればあとはひたすら、という……ある意味「武士にあるまじき」までに合理的な判断を下しえた背景には、動画の神谷さんたちが言うような、実家の水戸家の伝統や、欧米列強が云々という情勢判断も、あるいはあったのかもしれません(しかし、外国の内政干渉を警戒するにしては、幕府はずいぶんとまたフランスとよろしくやりすぎていたような気もしないではないですが)。
そこに特に異論はないのですが……
あえて付け加えるとすれば、彼が徳川将軍と言いながら、わりと京に出ずっぱりで、江戸で人心を掌握している暇がなかったようにも見えることや、彼のもう一つの出自である養家の一橋家の存在にも、注目しておいてよいような気はします。

一橋家というのは、いざというとき将軍を出すために作られた、「御三卿」の一つ。
その大きな特徴は、いわゆる「藩主」「城持大名」の類ではなく、事実上、徳川の「身内」として、幕府に扶持されているような家だったことでしょうか。
御三卿の「家」としての性格は、江戸時代の他の大名家とは明らかな相違が認められる。幕府からは各家の当主に10万石が支給されていたが、領地は日本各地に分散して存在しており、これらの領地の支配は独自の代官所によって行われた。 例として、一橋家の大坂川口陣屋や備中国江原陣屋、越後国金屋陣屋など、田安家の摂津国長柄陣屋、甲斐国田中陣屋などがある。また、家老以下の家臣団も主に旗本など幕臣の出向によって当主に付属する形で構成されていた。このように、御三卿は独立した別個の「家」ではなく、将軍家(徳川宗家)の家族・身内として認識されており、社会的にも経済的にも大きく依存している実態があり、独立した藩が置かれることはなかった。
Wikipedia:御三卿 - 御三卿家の特色
要するに、この人、お家第一の家臣団を擁して共同作業で国を治める、”君臣水魚の交わり”のようなものを自分自身の経験としても、”家”の伝統としても、経験したことがなかったのではないでしょうか?
(彼が一橋家に養子に行ったのは9歳のときですから、実家の影響がどの程度だったのか、よくわかりませんし、そもそも、そのころの水戸はそれこそ斉昭のワンマン体制だったような気もしないでもありません。あるいは藤田東湖のような少数のブレーンを抱えた側近政治に近いか?)

そうした生い立ちの慶喜が、紆余曲折あって、十五代将軍になるわけですが。十四代将軍家茂とは、もともと、安政の頃に将軍継嗣の座を争った、いわばライバル。本人同士に個人的な遺恨があったわけでもないでしょうが、こういう政争というのは、むしろ周囲の取り巻きのほうが熱くなるのが常であって。家茂というのがわりと人格的には清廉な好男子であって、孝明天皇の覚えもめでたく、御台所は和宮。先代将軍の突然の死に悲嘆にくれる江戸城は、慶喜にとっては、かなりアウェーな環境だったかもしれません。

まあ、あまり推測に推測を重ねるのもホドホドにしろというところですが……

もしも慶喜が、一橋家の家臣とも、幕臣とも、メンタル面での深い結びつきを持っていなかったとしたら、彼の行動原理の中で、個人的な「能力」や、実家の家学にすりこまれた抽象的な尊王心の比重が、相対的に高くなった可能性は、あるような気もしないでもありません。
幕府も会津も桑名も平気で見限る、ドライな合理性は、ある意味、とても「近代的」だったでしょうか。

ちなみに、当方、個人的には、幕末の藩主たちのなかで、ある意味、会津の松平容保こそ、「武士の鑑」であり、だからこそ、武士の時代の終わりとともに退場したのではないかと思っていまして……”武士にあるまじき”慶喜とは、それこそ見事な対照というべき気がしていますが。
その両者のルーツ、水戸光圀と保科正之が、共に尊皇家であり、かつ、いとこ同士だったというのも、感慨深いものがあります。
前回、薩長土の藩論のまとまり方、リーダーシップのあり方について一言しましたが。。
リーダー不在のまま三つ巴の内訌で消耗し尽くした水戸や、当代の藩主・容保個人というよりは「家訓」に象徴される歴代藩主の精神(尊皇で、かつ親藩で、徳川への忠誠を誓うその家訓の精神は必然的に根っからの公武合体派たらざるをえなかったように思いますが)の下に一貫した団結を維持し続けた会津についても、いろいろ、考えてみたい気はします。

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posted by 蘇芳 at 01:56|  L 「CGS 斎藤武夫 歴史の授業」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする