2019年12月01日

放伐論


地上の政治権力者は天の命が決める。
権力者が腐敗堕落しその資格を失えば、天の命は更改され、別の人物が新たな政治権力者に指名される。
新資格者は天命の権威の下に軍を起こし、旧資格者を打倒(放伐)し、新王朝を開始する。
天命の真偽は放伐・革命の成否によって明らかになる。究極の「勝てば官軍」。
これが大陸式の易姓革命(天命が革まり、王朝の姓が易る)であろうか。

わが国においては王朝が交代したためしはない。天皇は万世一系である。大陸式の易姓革命はかつて一度として起こったことがない。まことにそのとおり。
しかし、王朝は交代しないが、政権は幾度となく交替してきた。儒教思想も仏教に先立って記紀の時代にとっくに流入してきている。大伴や物部の昔から、蘇我、中臣、橘、藤原、平、源、北条、足利、織田、豊臣、徳川、何度となく権力者は易姓してきた。
ならば、そこに、大陸式とはまた異なる列島式の政権(王朝ではない)交代、放伐のロジックもまた、見出しうるのではないか。

こちらでも書いたことのくりかえしになるので手短にすませるが、つまるところ、天命が命じるのはあくまで政治権力者の交代である。天とは権力者の権力に裏付けを与える権威者である。この権威と権力の分業が地上の国家機関の水準で早くに確立したのが、大陸とは異なるわが国の特徴であるように思う。

大陸の帝政は絶対王政であり、皇帝は専制君主であり、政治権力者そのものである。彼に何かを命じ、彼が大人しくその命に服さざるをえないような、さらなる上位者はこの地上には存在しない。彼に何かを命じるためには、この地上を超越した天上の権威を仮構するしかない、デッチアゲルしかない。デッチアゲであり、抽象観念であるがゆえに、どうとでも理屈をこね、いくらでも歪曲も悪用も可能かつ容易なのが大陸の「天」であるとも言えるかもしれない。

これに対してわが朝は、早い時期に絶対王政の実質を失っている。天皇は専制君主でもなければ、わずかな親政の例外を除いて、歴史の大部分の時期において政治権力者ですらない。天皇は摂政や関白や将軍といった政治権力者を任命あそばされる権威者である。つまるところ、摂政や関白や征夷大将軍といった地上の権力者に対して、何かを命じ、彼ら権力者が形式的にではあれ大人しくその命に服さざるをえないような、さらなる上位者が、大陸とは違って、わが国の場合、この地上に現実に存在した。であれば、何も、わざわざ、ありもしない虚構の「天」などをデッチアゲル必要もない。

地上の政治権力者は勅命が決める。
権力者が腐敗堕落しその資格を失えば、勅命は更改され、別の人物が新たな政治権力者に指名される。
新資格者は錦の御旗の下に軍を起こし、旧資格者を打倒(放伐)し、新政権を樹立する。

原理的には、日本式の放伐はこのようにして達成されうるはずではないだろうか。そしてそれは、虚構の天の権威を必要とせず、地上化されているが、構造としては大陸の革命とパラレルである。
放伐の対象はあくまで政治権力者であって、権力に裏付けを与える権威者ではない。大陸においては、この政治権力者=皇帝であり、権威者=天であるが、わが国においては、政治権力者=臣下であり、権威者=天皇である。
この地上化された「革命」をこそ、あるいは「維新」と呼ぶのかもしれない。

江戸幕府の官学が儒教の一派である朱子学であることは常識だが。その儒教思想を公認した幕府の創始者、家康自身の放伐理解もまた、そのようなものではなかっただろうか。
吾、既に天下を平定し、将軍、大政を執ること日あり。吾また後事を以て憂いとなさず。然りと雖も、吾死して将軍或は政を失わば、即ち侯伯のその器に当る者、よろしく代りて天下の柄を執るべし。天下は一人の天下に非ず。吾、何ぞ恨みんや。
この殊勝な遺言が、神になってまで徳川一門の繁栄を守ろうとした家康の本心であったかどうかはまた別の問題だが、猿芝居だろうと何だろうと、少なくとも表向きのロジックとして、家康は放伐の可能性を認めていたことにはなるし、認めざるをえなかっただろう(なぜならそれこそは、そもそも、家康自身による元和偃武の正当性の根拠でもあっただろうから)。
いずれにせよ、この家康の言明において、政治権力者としての資格を失った場合に、放伐されるべき者は、あくまで「将軍」であって、天皇ではない。

葦津珍彦曰く、
権力の行使者たる武将の間においては、易姓革命、放伐の理論は認められ正理とされたが、それは権力行使者間の法則であって、権力の精神的源泉たる「皇位」そのものに及ぶとは考えられなかった。放伐を政治の公理とみとめた家康もまた「皇位」の永遠を尊重し、この皇位の精神的影響力をもって、徳川政権の地位を強化すべく、あらゆる政策を考えた。
ならば、この「「皇位」の永遠」の尊重こそが、革命と維新を分かつ決定的な秘鍵というべきか。

つまるところ、その「「皇位」の永遠」を破壊し、冒涜し、「放伐」を皇室にまで及ぼそうと企てる者どもこそは、端的な事実において売国奴であることはもちろん。日本式維新のロジックを捨て、大陸式革命のロジックを導入せんと企てるという思想的な水準においてもまた、二重三重に許すべからざる朝敵であるのかもしれない。
そして、万一、それら冒涜者によってわが国政体が毒されたときには、当然に、放伐・維新のロジックが発動されてしかるべき、はずなのかもしれない。
倉山満公式サイト:二階俊博は、なぜ逆賊認定されないのか?
日刊SPA! :皇室の女系容認論は詭弁。昨日までサラリーマンだった人を天皇の資格ありと承認できるか?/倉山満
産経ニュース:
二階氏「国賓待遇は当たり前」 中国国家主席来日
【外交安保取材】習近平氏に自衛隊の栄誉礼を受ける資格はあるか
問題は、その「放伐」の、現代において可能な手段だが……

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posted by 蘇芳 at 15:25| 皇室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする