2019年11月28日

西南戦争と民権派


こちらでも書いたけれども最近、葦津珍彦にハマっている。たてつづけに三冊読んだし、まだ二冊購入済み。面白い。

私たちが子供の頃の教科書には、西南戦争というと、時代遅れの特権階級の軍隊を、輝かしい平民の軍隊が打ち破ったという、階級闘争史観のようなことが書いてあった気がする。
西郷隆盛の死も、時代を読み切れなかった古い人間の個人的な悲劇であるかのように語られることが、教科書どころか、小説やドラマといった「物語」の世界でも多かった気がする。
それらのドラマの中では、西郷の元に、西郷を慕って、数えきれない志士や若者たちが集まってきて、彼らは一様に憤懣やるかたないといった様子で気勢をあげているが、しかしそもそも、何をそんなに憤っているのかは、必ずしも明瞭に読み取れるわけではなかったようにも思う。

そこにはただ「情緒」だけがある。伝説的な西郷の「人柄」とも相まって、「情」に偏った描き方が許され、必ずしも西郷の「理」を追究することに熱心ではなかった、という事情でもあるのだろうかと、勘繰りたくなるほどだ。
西郷の側にあったのは「情」であり、「情」でしかなかったというのが万一もしも本当なら、「理」は完全に新政府の側にあったことになりかねない。
実際、自称保守派の語る「歴史」においても、戊辰の役のあと、新政府は数々の改革を行い、富国強兵、憲法発布その他その他素晴らしい施策を重ね、その一直線の延長上に、日清・日露の勝利もまたあるかのごとき観を呈することがしばしばあるような気がする。これを称して世人は言う、明治の人はエラカッタ、と。

しかし、「明治の人」とは誰のことだろう。「新政府」とは誰のことだ。
西郷隆盛その人が誰よりもまず第一等の明治新政府の要人だったのではなかったか。西郷とともに下野した連中だって、「明治」の「政府」の人間が数々いたし、西郷死してのちの「政府」もまた次々に顔ぶれが変わっていった。その政策に一点のぶれもなかったなどというわけもなく、「明治の人」が最初から最後まで一貫して「完成」した聖人君子だったわけのものでもない。鹿鳴館時代一つとっても、「明治」の「政府」に多々あった愚劣の側面は明瞭であるし、鹿鳴館の伊藤と憲法制定時の伊藤はほとんど別人の観を呈していないか。

新政府が、数々の改革を断行して、偉大なる明治を築きあげた、という、単純な直線的な歴史が真実であるとするならば、西郷隆盛は、単に、その「歴史の必然」から落ちこぼれた敗残者であるにすぎないことになろう。
しかし、もしも、西郷の決起こそが、逆に、そうした新政府の数々の改革を断行させる推進力になっていたとしたら、どうだろうか?
西郷隆盛こそ、明治の開幕だけにとどまらない、その完成をうながした真の功労者だということにも、なってしまいかねない。つまり「歴史」がひっくり返る。

実際、葦津珍彦の本などを読むと、西南戦争で西郷の元に結集した同志たちには、数多くの民権派が含まれていたという。(「民権」の意味についても葦津の論は周到であり、逆にその論を踏まえずにこの語を解釈すると論全体を歪めて誤解する可能性もありそうだが、詳しく紹介するわけにもいかないので、とにかく原著を読んでほしい)
征韓論者は、下野すると同時に、民撰議院設立の建白を提出した。これが、明治民権運動の実際的な発端となるのである。それ故に実際的には、初期民権論の活動分子の大部分は、そのまま征韓論者と一致している。
 明治十年、西郷隆盛が鹿児島の郷党をひきいて立ったときに、薩摩以外の各地から馳せ参じた同志者の中には、各地の急進的民権論者がすこぶる多かった。西郷は大久保政府のために斃されたけれども、大久保もまた、西郷残党のために暗殺された。大久保を斬った島田一郎、長連豪等の一党もまた、その当時の急進民権論者であり、その斬姦状の論旨もまた、「国権即民権」の思想の上に立っている。
民権党は、征韓論の残党、板垣退助、後藤象二郎等をおし立てて、猛烈に民権国会の開設をせまった。政府の内閣からも、大隈重信が民権国会開設の要求に内応した。明治十四年、政府は在野勢力の猛攻を前にして、国内治安維持の自信を失い、ついに国会の開設を公約するにいたった。
憲法が制定されたのは明治二十二年であるが、その大綱が決せられたのは明治十四年である。この明治十四年において、国会開設が決定されたのは、征韓論直後から始まる民権運動、西南の役の重大なる圧力を無視しては考えられないことである。明治二十二年、憲法の発布にさいして、特に西郷隆盛等が賊名を除かれ、贈位されたのは、故あることといわねばならない。

征韓論。西南戦争。民撰議院設立の建白書。自由民権運動。板垣死すともナントヤラ。国会開設。憲法発布。これらはすべて単立の事実としては教科書にも書いてある。しかしそこにこれだけの明快な「脈絡」を見いだせた試しはあるだろうか?
この「脈絡」が正しいとすれば、「偉大なる明治」の数々の施策のほとんどは、西郷なかりせば、否、西郷の決起なかりせば、実現しなかったことにもなりかねない。
国会開設にせよ憲法制定にせよ、「政府」という主語が主体的に一直線に予定のコースをひた走ったわけでは決してなく、一代の英雄・西郷の遺志に尻を叩かれていやいやしぶしぶそのコースに追いやられたにすぎなかったことになりかねない。
その西郷の賊名云々についても、自称保守派の言説の中にさえ、それを明治天皇の個人的感情(それもあったには違いないが)に全的に帰するかのような情緒的説明を見ることはしばしばあるような気がするが、決してそれどころの話ではなかったことになりかねない。

この「脈絡」がどれほど正しいのか、あるいは間違ってるのか。私ごときに即ジャッジする能力はないが、肯定するにせよ否定するにせよ、一度は「検討」してみるべき、それだけの魅力ある立論に違いないのではないだろうか。
葦津珍彦にせよ竹山道雄にせよ、私も時々、「今さら」と言われそうな論者の本にハマってしまうが。占領以来の困難な時期に、すでにこれだけの仕事をした先達がいたということは、もっと銘記されてよいように思うし、それら先達の業績を無視して、歴史の真実もへったくれもないものだと思ったりもするのである。

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posted by 蘇芳 at 14:46| 明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする