2019年09月07日

【動画】応仁の乱を経て戦国時代へ【CGS 斎藤武夫 歴史の授業 第32回】


ChGrandStrategy から。


動画概要:
2019/09/06 に公開
今回から戦国時代についての授業に入っていきます!
有名な武将も多いことから、子どもたちも詳しい戦国時代のこと、どんな世の中だったのか斎藤先生に改めてお話していただきます。

およそ100年続くことになる長い長い戦国時代、その時、民はどのような生活をし、どのようなルールで生きていたのでしょうか…?

実力の時代になった、とはよく言われる話ですが。
それでは実力「だけ」が「すべて」の時代になったのか、そもそも「実力」とはどこからどこまでを言うのかというと、なかなかどうして話はヤヤコシクもなってくるかもしれません。

戦国時代というと戦争ばかりやっているように思えるかもしれませんが、戦争というのはそもそも金がかかりますし、疲弊しますし、負ければ悲惨ですし。当面の敵に勝ったとしても、そこを待ってましたと漁夫の利狙いの第三勢力に襲われる可能性だってあるでしょう。
そのすべてを「力」だけで強引にねじ伏せるというのは現実的とも思えませんし、よしんばそれを可能にするほどの力があったとしても、そもそも「強引」という時点で、無理が働いていますから、ウラミツラミは買うでしょう。いつ寝首をかかれるかわからないような緊張は続きます。

もともと、有史以来、血で血を洗う殺し合いだけをくりかえしてきたような民族なら、それでもよいかもしれませんが、二言目にはわりとすぐに盛者必滅だのもののあはれだのと言いだす大和民族。
「力」は必要。しかし「力」だけでは長続きしない。
ならば「戦わずして勝つ」ができれば何より。刃を血塗らず、敵を味方に変える妙案はないものか。。。
戦国の世であればあるほど、むしろ、平和的解決への欲求、むしろ「需要」は高まっていくものかもしれません。

そうして、一人の武将だけでなく、複数の武将、とりわけ対立抗争している双方の当事者同士が、武力以外の解決手段への志向を共有していたとすれば、戦うよりもむしろ盟を結んだり、和を講じる方向へかじを切ることもやりやすくなるわけで。しかし、お互いに裏切りは怖い。相互に何らかの保証が必要、という次第で……
結局のところ、信頼できない相手と契約を交わすための様々な「作法」が編み出されていったのも、また、戦国時代だったのではないでしょうか。
教科書に載ったり、小説や映画になるような有名な武将の話ばかり聞かされていると、たとえば、「盟約」などは破るためにあり、「人質」などは殺すためにある、かのようにも見えかねないかもしれませんが……実際には最後まで固く守られた「同盟」や、しっかり生き延びた「人質」も、私たちが思う以上には多かったのかもしれません。

ところで、対立している武将相互が和を講じ、同盟を結ぶとして、お互いの関係が「対等」ということはありうるか。やはりどうしても上下関係は発生するのではないか。となれば、その上下関係を、武力衝突をへずして円満に設定し、いわゆる実力次第の下剋上を未然に防ぎ、安定的に維持する、そうした方策もまた、必要となってくるのではないでしょうか。いわゆる人心掌握。「戦わずして勝つ」ほうがよいのは、外部の敵だけでなく、内部の敵に対しても同様であるはずです。
そのための手段というのもいろいろに考えだすことはできるでしょうし、実際に利益誘導をはじめ様々な手練手管が考えだされもしたのでしょうが……関係性の固定化には、究極的には、相手を「その気」にさせることこそ必要で、すこぶる内面的・精神的なものも介在していたかもしれません。

結局、つまるところ、実力を行使しないでも他人に言うことをきかせることができる、いわゆる「権力」ではない「権威」への憧憬は、戦乱の世であればこそ、むしろ深まっていくかもしれませんし、だからこそ、実力で以てのしあがった武将たちは、実力に対して権威の裏付け(血統とか家柄とか、あるいは官職といった)を欲し、その権威にふさわしい文化的洗練をさえ欲するようになっていった……のかもしれません。
その場合、その「権威」のよって立つところは、当然ですが、今さら、崩壊した幕府ごときではありえないでしょう。
戦国大名の多くが、源氏だの平氏だの、藤原だのの血筋を欲し、縁組をしてみたり家系図をでっちあげてみたり、「介」だの「守」だの律令制の官職を名乗ってみたり、正式に任命してもらうために京都の公家に莫大な金品を贈って周旋を依頼したり……そんなこともあったそうですし、官職任免など政治的影響力のない公家も、和歌だの書画だの鞠だの何のかのといった文化力を活かして「田舎わたらい」をすれば結構な実入りがあったというような話もあるようです。
当時田舎下りをした京都の貧乏公卿は、どこへ行っても諸大名の優遇を受けた。近隣の諸勢力と、激しいサバイバルゲームを展開していた彼ら大名は、天皇から官位を叙任され、公家から京都文化を伝授されることで自らのステータスシンボルとして周囲に対抗しようとした。逆にこのような装飾をしなければ、大名仲間の相手にされなかったのである。小田原城を割取して関東制覇に乗り出した北条氏綱が、旧勢力の上杉・佐竹から〝他国の凶徒”と嘲罵されたため、朝廷から北条の姓を受け、伊達稙宗・武田信虎と同じ左京大夫の官位を受けたことが何よりもその間の事情を物語っている。好むと好まざるとに拘らず、そうせざるを得ないのである。〝式微”と称され、没落の淵に瀕していたかのように見られる天皇制を、最も必要とし、その維持と権威の昂揚を助けたものは、信秀ら地方の戦国大名であった。
当時京都の公家の許へは、地方の大小名から、その城郭の命名(――城という城の名である)や軍旗の文字の揮毫を依頼してくる人々が絶えなかった。また宸翰の古典籍を万金を投じて入手し、蘭奢待などの勅賜の名香に随喜の涙を流さんばかりの大名も決して珍しくなかった。
さて信秀は、この後急速に尾張統一に乗り出し、同時に朝廷への財政援助を惜しまない態度をとって、天文一〇年(一五四一)には朝廷の懸案であった伊勢外宮仮殿造替費を独力で負担し、この朝賞として後奈良天皇から三河守に任ぜられた。後年今川義元も徳川家康も三河守に叙任されているが、室町幕府の守護職が形骸化した戦国時代にあっては、この王朝からの国司受領は分国支配の正統性を保障する唯一といってよい手段であった。
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戦国時代といえば、動画でも言われている通り、確かに「政府」は崩壊し、その直接の帰結として、朝廷には税収が入らなくなり、経済的な困窮、衰微、式微の末に大嘗祭の催行さえ困難になった、などと言われてもきた時代かもしれませんが……一方で巨額の「個人献金」は意外と頻繁だったのが戦国時代でもあるようで。実際、いくつかの官職は乱発され、やがてはそうした「献金窓口」として固定され常用されるに至った官職さえあったとかなかったとか。
修理大夫・左京大夫・弾正少弼などは、京都に常駐しない地方領主には、職務実態を満たせるわけでもない、虚位・虚官の名誉職にすぎませんが、それでも、多くの武将はそれらステータスシンボルを手に入れるために懸命の運動を展開したとか。それにはやはりそれなりに、そうした朝廷の権威が、地方経営の現実に、有益な面があったのでしょう。
対立している大名より、一階でも上の位階や官職を賜ろうと、血眼になった戦国大名などもいるそうで……
つまるところ、いわゆる「天下人」というものも、極論承知で俯瞰してみれば、所詮、そうした「猟官運動」の行きつく先の究極にすぎない、とも、言って言えないことはないのかもしれません?

上の引用文中にある「後奈良天皇」といえば、御宸筆の写経の奥書が何より有名ですが……それもこれも単なる仏道修行のためではなく、あくまで国民を救わんがため、国父としての御自覚のゆえだったはず。
戦国時代や戦国大名がどれほど「人気」といったところで、やはり、日本は天皇国。武将ごときは、究極において、陛下の「掌の上」なのかもしれません。。

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posted by 蘇芳 at 01:27|  L 「CGS 斎藤武夫 歴史の授業」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする