2019年09月02日

怨霊の声


旅の僧が途次に立ち寄った見知らぬ土地で、里人(前シテ)に出会い、土地のいわれやゆかりの人などについて訊ねる。里人は問われるままに答えるが、やがて、「実は自分こそがその話題の主の亡魂である」と正体を明かし、かき消すように消えてしまう。そのとき、旅僧に、その場で一夜を過ごすことや、読経を依頼する場合もある。旅僧が乞われるままに夜を過ごすと、やがて、正体を現した亡魂(後シテ)があらわれて、生前の苦悩や出来事を語り、あるいは亡者となった死後の責め苦をもあらわにし、菩提を弔ってくれと哀訴する。旅僧は一心に経を読み、やがて亡霊はその功徳に救われて成仏する。
これがいわゆる「複式夢幻能」のだいたいのあらましだろう。つまるところ、「前シテ」と「後シテ」は決して別の存在ではない。前者は仮の姿、後者は正体。両者はつまり同じものだ。

三島由紀夫が「英霊の聲」を複式夢幻能の形式で書いたと自称していることは言うまでもあるまい。
ならば当然、「英霊の聲」における前シテと後シテも、「同じもの」でなければならない。後者は前者の「正体」でなければならない。
しかして「英霊の聲」の前シテは何か? 大東亜戦争・特攻隊の英霊である。後シテは何か? 二二六事件の叛徒である。
つまり三島由紀夫はこの両者を「同じもの」だと言っている。特攻隊の英霊を一皮むいた「正体」は、二二六の叛徒だと言っているのだ。

この接続の危険性。いや、この接続の持つ説得力の危険性を、自称愛国者は、きちんと認識しておくべきではないだろうか。

特攻隊の英霊がまさしく「英霊」であることは言うまでもない。
しかし叛徒は英霊ではない。
維新の功臣、明治大帝の忠臣、西郷隆盛でさえ、叛して死ねば逆賊なのだ。
まして、不敬極まる社会主義者にそそのかされ、国家の重臣を殺して回り、ようやく復興に向かうかのきざしを見せ始めた日本経済を再びドン底へと逆戻りさせたあげく、国家によって罪人として処刑されたテロリストたちが、なんで英霊であるものか。
彼らは単なる死霊である。もしも彼らが国家の措置に不服であり、死後も異議を申し立て続けるというのなら、単なる死霊どころか、むしろ「怨霊」とさえ呼ぶべきものではないか。

しかるに三島由紀夫はこの「怨霊」が「英霊」と同じものだというのである。この「怨霊」が「英霊」の「正体」であるとさえ言うのである。
A=Bだが、B=Aではない、などという論理はユークリッド的には存在しない。
A=Bは、常に、B=Aである。
「怨霊」=「英霊」なら、「英霊」=「怨霊」だ。
二二六の叛徒が「英霊」と同じものだというのなら、当然、特攻隊の英霊は「怨霊」と同じものだということになる。

要するに三島由紀夫は、靖国神社に代表される英霊創出のシステムを、御霊信仰の相において見ているのではないか。

恨みを飲んで死んだ死者の亡魂は、怨霊となって生者に祟る。祟りを鎮める方法は、唯一、生者がその死者の名誉を回復し、神として祀ることしかない。災いをもたらす怨霊は、生者の祭祀を受けることで、福徳をもたらす御霊≒「神」に変換される。
祟りを鎮めるという、すこぶる実用的な目的のために、新たな「神」が創出され、死者の生前の行為の意味付けさえ、その実用上の便宜のために上書きされる。それが御霊信仰だ、まったくもってご都合主義だと、ぶっちゃけることも可能だろう。
しかして三島由紀夫の一見熱烈な愛国的な身振りの裏には、靖国の「英霊」も、一皮むけばそれと同じだ。ご都合主義だ、と……そんな冷笑が、ニヒリズムが、あるいは絶望が、はりついてはいないだろうか。

死者の生前の行状などはどうでもいい。そんなものはいくらでも上書き可能だ。「怨霊」と「英霊」を隔てるものは、ただひたすら、生者の認知とそれにもとづく祭祀の有無のみである。「怨霊」もおだて上げ、祀り上げれば、たやすく「英霊」に転換可能であるし、「英霊」もひとたびへそを曲げれば、いつ何時、再び祟りをもたらさないともかぎらない……
英霊がたたりを為すかもしれないなどと、そんなバチアタリな想像を、もちろん靖国神社は否定するだろうが、「英霊」=「怨霊」という等号式の下では、論理的に、そういうことも起こりうるということにならざるをえない。だからこそ、実際、「英霊の聲」における二二六の「英霊」は、依代の川崎青年を祟り殺しもするのではないか。
つまるところ、「叛徒」がイコール「英霊」であり、その「英霊」が生者を祟り殺すと主張する三島由紀夫は、靖国神社の信仰観(「英霊」≠「怨霊」)に正面切って反旗を翻している。そして困ったことに、たかだか150年の歴史しか持たない靖国の信仰に対して、1000年以上の歴史を誇る御霊信仰のロジックは、靖国専門家でも何でもない我々一般の日本人に対して、かなりの説得力を持ちえてしまう、のではないだろうか。

しかも、崇道天皇にせよ崇徳天皇にせよ、最大級の怨霊の祟りの向かう先は、しばしば天皇である。
そして、日本の祭祀の中枢、最高位の神主でもある天皇は、また、怨霊を神へと転換する祭祀の執行者でもありうる。
「英霊」に祟り殺された霊媒師の青年の死に顔がまったくの別人に変貌していた、その顔の主は「天皇(昭和天皇)」であると生前の三島が認めていたという「英霊の聲」にまつわる挿話の文脈も、御霊信仰のロジックと照らし合わせてはじめて了解可能になるのではないだろうか。
Wikipedia:英霊の聲 > 作品研究・解釈
瀬戸内寂聴は、最後の〈何者かのあいまいな顔に変貌〉した川崎青年の死顔の、その変容した顔が天皇の顔だといち早く気づき、「三島さんが命を賭けた」と思い手紙を送ったと述べている[24]。すると三島から、〈ラストの数行に、鍵が隠されてあるのですが、御炯眼に見破られたやうです。能と仰言るのも、修羅物を狙つたわけです。小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉という返事があった[24][25]。
烈士烈士と考えなしに三島を崇拝する自称愛国者は今もときどき実在するようだが、三島の言う「英霊の声」がすなわち「天皇に祟る怨霊の声」でもありうるといったら、彼らはどうするだろう。驚くだろうか、憤慨するだろうか、非国民売国奴国賊と当方を罵るだろうか。きょとんとして、基地外でも見たような顔で、私ごとき路傍の石はスルーして、無邪気に三島烈士をたたえつづけるだけだろうか。

こちらで書いた「海ゆかば」の返報性の要求。
こちらで書いた祭祀の真実性を担保する「信」の喪失可能性。
これらは単に反日の玩具であるべきではなく、むしろ愛国の課題であるべきだと思うのだが……そんなことを思う私のほうがどうかしているのなら、幸いだ。

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靖國神社創立150年――英霊と天皇御親拝
さまよえる英霊たち―国のみたま、家のほとけ
野口健が聞いた英霊の声なき声―戦没者遺骨収集のいま
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posted by 蘇芳 at 02:21|  L 靖国神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする