2019年09月01日

【動画】金閣?銀閣?どっち?足利義政と室町文化【CGS 斎藤武夫 歴史の授業 第31回】


ChGrandStrategy から。


動画概要:
2019/08/30 に公開
今回は室町時代についてお話する第二弾です!
皆さんは金閣寺と銀閣寺、住むならどちらに住みたいですか?
ユニークな質問から入る今回の授業も、室町時代の魅力をたくさん教えてくれます!

足利義政はどんな人だったのか、室町時代に廃れてしまったものは?また、流行ってきたものは?今回も楽しく教えていただきました!

だ、そうで……
動画で語られている内容自体に嘘や間違いがあるというわけでもないでしょうし、仏教美術より生活文化優先など、面白い視点だと思わないでもないですが(能や茶の湯と仏教の関係はどーすんだという気もしないでもないですが)。
ただ、やはり、これは斎藤氏に限ったことでもないですが、当ブログ的な目線からは、この時代の文化について注目すべき大きなトピックが、スッカラカンと抜け落ちている気はしないでもありません。
すなわち吉田神道です。

当ブログでは何度も書いているように、鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて、北畠親房をはじめとする南朝方と深く結びついた渡会神道に対して、京都吉田山という地の利を活かして幕府・北朝と接近、いろいろあって渡会の不倶戴天の敵となったのが吉田神道。
今回の動画では金閣がチラッと映っているだけの三代将軍義満も、神祇方面の問題ではしばしば吉田兼敦に諮問していたと言いますし、その吉田家がいよいよ勢いに乗り始めるのが、ちょうど応仁の乱のころだったとか、そのときのパトロンの一人が、動画にも登場した日野富子だったとか……井上智勝「吉田神道の四百年 神と葵の近世史 https://amzn.to/2zBI6Me」には書いてあります。
ただ言えることは、兼倶は吉田山を天下無双のパワースポットに仕立て上げようと構想したことだ。そのためには、支持者を獲得しなければならない。幸い、将軍足利義政の妻である日野富子が多額の援助を申し出てくれた。
(P26)
吉田神道といえば毎度毎度ソースが本書とせいぜい「わかりやすい神道の歴史https://amzn.to/2NIClEY」くらいで恐縮ですが。吉田神道に関する一般向けの本というのがまず滅多にないのですから致し方もありません。

そんな、一般的な認知度は必ずしも高くない吉田神道ですが、吉田兼倶があらゆる手段を尽くしてのしあがっていく有様はそれ自体エンタメ的に面白いですし、これ以降、信長・秀吉・家康と代々の武家政権に取り入って神道界で大きな役割を果たすことにもなっていきますし、幕末に宝暦事件・明和事件を起こした垂加神道も、その誕生には吉田神道の分派ともいうべき吉川神道が関与しています(「垂加」とは吉川惟足が山崎闇斎に贈った号とも聞きます)し……日本史における神道の関与に関心のある向きには、前掲書https://amzn.to/2zBI6Meの一読をお薦めします。

つけくわえると、江戸時代初期、山崎闇斎と吉川惟足に出会いの場を提供したのは会津藩主保科正之だったかと思いますが。つまり徳川光圀・徳川義直など、正之と同時代の尊皇家たちが学んだ「神道」もまた、往々にして吉田や吉川の流れのそれだったのではないでしょうか。徳川光圀などは有名な「大日本史」と並んで「神道集成」を編纂させ、領内の神社仏閣の整理統合事業を起こしていますが、行き過ぎた神仏習合を整理し、統廃合し、時に名称を変更などする過程で、新たに神主を養成する必要が生じた場合、学ばせた神道というのも、他でもない、吉田神道だったとか。。
今しがた、八幡宮の名称が変更されたことを見たが、どのような名前に変更されたかというと、鹿島神社、静神社、吉田神社などに改められたものが多かった。鹿島神社は、水戸藩が藩庁を置く常陸国(西南部を除く茨城県)の一宮、静神社は二宮、吉田神社は三宮で、いずれも式内社だった。鹿島神社は水戸藩領の外にあったため、光圀が強く介入することはなかったが、それまで十分な保護がなされていなかった静神社・吉田神社を修復し、社田を与えて経済基盤を整えるとともに、神仏習合だった両社の在り方をあらため、寛文七(一六六七)年僧侶を廃し、神職を京都に派遣して神道を学ばせている。当然、その行き先は“神使い”吉田家だった。
(P127~128)
幕末維新の思想的ルーツとも言われる水戸学の根底には吉田神道の影響がなかったとは言いきれず、その吉田神道にとっての画期が室町時代、特に応仁の乱で京都が焼野になった時期だったことは、上の動画のように派手で表だったトピックではないかもしれませんが、「神国」日本にとっては無視できない思想的な地下水脈のようにも思われ……せめてトリビアとしてでも知っておく価値はあるのではないでしょうか。

例によって話が動画から全速で遠ざかりましたが……

もう一つ個人的な感想を付け加えておくとすると、「弟を養子にしたら、あとから息子が生まれたので、喧嘩になった」という応仁の乱の発生パターンは、その昔、保元の乱が勃発するときに藤原家が踏んだ轍と同型です。まあ、保元の乱の場合は、兄弟喧嘩より以上に、親子喧嘩の様相も強いのですが、裏側の内幕は別にして、家督相続のために実弟を養子にするという縁組のパターンそのものはほぼ同じというわけで……それが戦乱の原因になり、長い目で見れば政権交代の遠因にもなっているのもよく似た次第。別にこの二つの事例にかぎらず、さらにいうなら日本にかぎった話ですらもなく、古今東西、骨肉の争いというのはよく似たパターンに陥りがちなのかもしれませんが、だからといってメーワクレベルが下がるわけでもなく、先祖代々由緒正しい京都のプロレタリアートたる当方としては、ちょっといいかげんにしやがれくださいというところではあります。

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応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱
posted by 蘇芳 at 01:07|  L 「CGS 斎藤武夫 歴史の授業」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする