2019年08月31日

箱の中


白木の箱は空だった、というのはよく聞く話である。
大東亜戦争戦没者のエピソードにはつきものといっていい。
箱の中には、名前を書いた紙が入っているだけだったとか、「お骨」と書いた紙が入っているだけだったとか、ゴトゴトいうから何かと思えば石コロが入っているだけだったとか、そんなバリエーションもあっただろうか。
いずれにしても、悲話の一種。ただそれ「だけ」の「ひどい話」というニュアンスだ。

ところで、四辺を囲んで上下をふさいだものが「箱」であるとすれば、壁と屋根と床のある建物というものも、「箱」の一種であるといえば言える。
神社の本殿だの拝殿だのという建物も、建物であるからには、つまり一種の箱である。
では、靖国神社という「箱」にはいったい何が入っているだろうか?

神社は神社である。お寺ではない。墓でもない。
当然、靖国というその箱の中にも「お骨」などは入っていない。
白木の箱は空である。
せいぜい、御霊代として、鏡と剣と、そしてせいぜい霊璽簿が入っているだけだ。
「だけ」というとこの場合、語弊もあるが、モノの譬えとして言うなら、それらは所詮、先述の白木の箱の中に入っていたという紙や石とパラレルな要素にすぎまい。

鏡も剣も朝廷から奉納された一級品ではあろうが、別に生前の御祭神とゆかりがあるわけでもない。どんな名工の手にはなったといっても、畢竟すれば手工業製品にすぎない。御祭神が踏んだかもしれないどこかの石のほうがまだしもゆかりがあると言って言えないこともないくらいだし、霊璽簿に至っては、つまるところ御祭神の名簿であり、まさしく白木の箱に入っていたという「名前を書いた紙」と物理的には変わるものではない。

靖国神社には御祭神の遺品が奉納されている場合もあるが、それらは遊就館に収蔵され展示され、必ずしも日々の拝礼の対象になっているわけではない。そもそも、御遺品の遺されている御祭神より、残されていない御祭神のほうがはるかに多くもあろう。それだからといって、後者の祭祀に何か差しさわりがあるわけでもない。遺品の有無は靖国の本質に何らかかわるものではない。

つまるところ、あくまで外形的、物質的には、靖国神社という箱は、空っぽの白木の箱と、本質的に大きく相違するものではない。
白木の箱は空だった。
靖国という箱も空である。
にもかかわらず、前者はどこまで行っても非人情な「ひどい話」であり、後者は大君もぬかずきたまう、二百四十万英霊のやすらう、かけがえのない日本の聖地である。
なぜ、前者は「ひどい」のに、後者は「ありがたい」のか。
そこにどんな違いがあるのか。
その違いは、いったい、何によってもたらされるのか?

祭祀によって、と、口で言うのは簡単だ。
しかしそれでは祭祀とは何か。
いったいどんな奇術を使えば、空っぽの「箱」を神聖なみたまのやすらう宮に早変わりさせることができるのか?
神主が祝詞をあげれば一丁上がりか? 御幣を振ればそうなるのか? いったいどんな理屈で、どんなメカニズムで?
そもそも神とは何だ、魂とは何だ。
靖国神社や護国神社の前身は「招魂社」だが、つまるところ、魂というのはコッチコッチと呼べばホイホイやってくるのか? 便利だな。

民俗学的な手法を駆使して、古来、日本人は神や霊魂をどのように考えてきたとか、祭というものをどのように行ってきたとか、調べることはできるだろう。あるいは歴史的事実をつきとめることはできるかもしれない。
しかし、人々が神や霊魂をそのようなものであると考えてきたということと、神や霊魂がずばりそのようなものであるということとの間には、決定的な隔たりがある。
前者はどこまで行っても客体的に把握された歴史であり、つまるところ他人事の知識にすぎない。
しかし、神だの霊だの魂だの祭祀だの、そこに「信」がなければたちどころに茶番にすぎなくなるのではないか。
古来、日本人が神や霊をそのようなものと考えてきたとして、現在、私たちは同じく神や霊を「ずばりそのようなものである」と考え・感じ・信じつづけえているだろうか?

靖国神社についてはあいかわらず議論がかまびすしい。アプローチのパターンはいくつかある。その多くは政治的だったり歴史的だったり、或は情緒的だったり、経験的だったりもするだろう。
そうした議論も、もちろん、大切ではあるのだろうが……
靖国神社が神社であり、すなわち日本人の信仰にかかわる存在であるとするならば、その存在について、宗教的なアプローチも、(少なくとも宗教学的なアプローチくらいは)、必要ではないだろうか。
神道は言あげせず~とうそぶいていられるうちはよいが、そもそも、そうした共通の「信」の基盤を掘り崩すために、社会のあらゆるレベルで精魂を傾けてきたかにも見えるのが、近代とか現代とか、戦後とかいう時代ではなかったか。黙っていても、その趨勢に抗しうるのか? 抗する必要はないのか?
もし必要ありとせば、神とは何か、霊とは何か、祭祀とは何か、単なる他人事の知識以上の、信仰の実感をともなった答えを、用意しておく必要はないのだろうか。
あるいは、ことあらためてそのように問わねばならない時点で、私たちは、少なくとも私は、とうの昔にそんな「信」を失っているのだとでも言うべきだろうか?

別に靖国についての記述ではないが、柳田国男の、
しかも一方にはただ歴史ある敬神の国是を強調することによって、永く神国の伝統を支持し得べしと、思っているらしき人がいるのである。虚礼に陥ることなくんば幸いである。
柳田国男「日本の祭」https://amzn.to/32jPNTN
という一節が、なぜとなく思いだされる、八月末日なのだ。。

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先祖の話
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日本人は死んだらどこへ行くのか
ラベル:神道 靖国神社
posted by 蘇芳 at 01:51|  L 靖国神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする