2019年08月27日

返報性


「返報性」という言葉がある。
最近は詐欺・犯罪関連の報道でばかり耳にする機会が増えたが、人間は恩恵を受けるとお返し(返報)をしなければならないと感じるという、真人間なら当然持っている心理的傾向のことであり、そこにつけこむ犯罪者のほうが卑劣なサイコパスであるというだけのことだ。
Wikipedia:返報性の原理

そんな犯罪者ではない、おおむね真人間によって構成される一般的な社会においては、伝統的な社会秩序・道徳の多くはこの返報性に依拠した一面があるのではないか。人間関係は互恵的でなければ長続きしない。より多数の成員から成る共同体ならなおのこと。一方的な搾取は復讐の呼び水となるだけのことであり、互恵的共存に比して、社会戦略としてさして高い優位性を持つものとも思われない。

安定的な秩序を長年にわたって維持してきた社会が、ただひたすら片務的な強制と搾取によって維持可能だというのは、それこそ返報性の何たるかを知らないサイコパスの妄想にすぎないのではないか。
もちろん、現実には、強制と搾取、暴力と恐怖による支配しか経験しえなかった国家や民族も存在するかもしれないが、そうした社会が「長期間」にわたって「安定」した平和と繁栄を享受したとも考えにくい。一方的な搾取が復讐の呼び水であり、復讐がまた復讐を呼ぶとすれば、その帰結は血で血を洗う王朝交代の動乱の歴史が関の山であろう。

「長期間」の「安定」した社会秩序の維持には、返報性の観念にもとづく道徳的・慣習的伝統が不可欠だ。
武家政権の「御恩と奉公」、西洋各王朝の「ノブリスオブリージュ」など、主従関係の道徳の根底にも、(実現の度合いは別にして)、こうした返報性、ギブ・アンド・テイクの心理規制が、わかりやすく発見できるのではないか。
で、あれば、それら武家政権や西洋の王室をはるかに凌駕する、126代2600年の「長期間」におよぶ世界最古最長不倒のわが皇室においても、その精神性の根底に何らかの返報性の観念が発見されることは、当然というべきだろう。

ひとたび確立した社会秩序において、慣習化された返報は社会的義務であるが、より長い歴史と伝統を誇る王朝の君主は、より強くそうした返報の「義務」に拘束される存在であるともいえるかもしれない。
それはむろん、わが皇室の卓越性を示す一面でもありうるのだが、同時に、冒頭で述べた類の、真人間の返報性につけこむ犯罪的サイコパスの目から見れば、大いにつけこむ余地のある、むしろ舌なめずりせずにはいられないほどの「隙」でもありうるのではないだろうか。

こちらの映画感想で、「国歌「君が代」と準国歌「海行かば」との間にある、微妙なズレ」について軽く触れるだけ触れておいたが……
そのズレもまたこうした返報性にかかわっていると言って言えなくはない気がする。

なんとなれば「君が代」はただひたすら天皇の長寿と御代の弥栄を祈り寿ぐ賀歌であるにすぎないが、「海行かば」は臣下の献身の究極として「死」を歌いあげることで、暗黙のうちに天皇にその「死」に匹敵するだけの返報の義務を負わせている。歌う者が意識しているといないとにかかわらず、構造的にそうならざるをえない、のではないか?
献身に見返りを求めない、と、臣下の側が口で言うのは簡単だが、誰よりも道徳的であらねばならない伝統的習律の中にある天皇が「はい、そーですか」とそれを受け入れることはありえない。「朕はたらふく食ってるぞ」式の左翼的妄想の天皇などどこにも存在しないし、そんな存在はその時点ですでに原理的に「天皇」ではないとも言える。わが国の伝統において、「道徳的であること」は「天皇」の定義の一部だ。

「海行かば」を歌う側も、そんなことは百も承知だ、(意識しているといないとにかかわらず)。
承知のうえで大君のために死ぬと宣言することは、ただちに、大君の側は臣下に何をしてくれるのか、と、無言のうちに「返報」を問うことになる。ならざるをえない。
つまるところ、忠君愛国の臣下の至誠は、君主に義務の履行を要求し、そして、万一、その義務が果たされていないと感じられた場合には、それを糾弾する声にさえ転化しうる。そこに、いわゆる「右」の情念が、「左」のルサンチマンに接続してしまいかねない陥穽があり、その陥穽を意図的に悪用する「犯罪」の余地もある。のではないだろうか。

実際、世の中には変わった人がいるもので、かつて「準国歌」だった「海行かば」を復活させろというだけならまだしも、中には「君が代」を廃止して「海行かば」を国歌にしろと言いだす自称愛国者を、時々、目にしないことはない。その底意は何か?
「海行かば」自体を否定する気は毛頭ないが、それを「君が代」と替えろなどというのは、要求の次元が根本的に違う。たとえて言うなら、伊勢神宮を破壊して靖国神社をに替えろというような、一種の下剋上的暴論ではないだろうか。しかして「大君もぬかづきたまふ」宮の栄光を悪用すれば、そうした倒錯も不可能ではないというのも現実か。こちらの映画感想でも書いた通り、「英霊」は「天皇」をなじるための便利な装置として悪用可能だ。”などてすめろぎは人間となりたまいし”。しかしその時点で「英霊」は「怨霊」や、いっそ「悪霊」にさえ、貶められてはいないだろうか。
英霊をタテにとって天皇を恐喝する。その文脈の危うさは、ある種の自称愛国者にとって、どうしても理解できないものなのだろうか。彼らは単なるデュープスなのか。あるいは確信犯も混ざっているのか。
それとも、こうした返報の要求は、英霊祭祀というものが、国家への忠誠にかかわる以上、宿命的に向き合いつづけなければならないアポリアなのだろうか。

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posted by 蘇芳 at 01:58|  L 靖国神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする