2019年08月15日

学鷲の遺稿から


こちらで軽く言及した西田高光命の遺稿から抜粋引用。
  ひとゝせをかへり見すればなき友の
  數へ難くもなりにけるかな
 四号作戦終れば、愈々俺の中隊突入の番だ。最後まで自重せん。沖縄は断じて敵にゆづらず。生命もいらず、名誉も地位もいらず、只必中あるのみ。深山のさくらの如く、人知れず咲き、散るべき時に潔く散る。何の雑念も含まず。
 暗い防空壕の中で爆弾の音を聞きながら――。必らず命中する。生涯の総力をかけて、今こそ二十三年の生けるしるしを示すのだ。我が五体極めて壮健なるをよろこぶ。
 一九〇〇待機解除となる。俺は随分永生きしたものだと思ふ。当基地に馳参、次の日には必中攻撃決行の所、情報が遅れ、次に雨天、次には遂に機動部隊は遁走し、今日で十日目になったやうだ。その間、他の特攻隊は数次に亘り決行され、僅か十日にして既に帰らざる友は数へ難くなつた。吾等が敵は動き廻る機動部隊なる故、最も至難なる攻撃にして今迄も成功を見ずして帰らざる者も少なからず、吾等この攻撃に選ばれ、新鋭艦上戦闘機五二型に五〇〇瓩の爆弾とロケットを装備す。その任極めて重く、吾犬死すれば続く列機にもその死所をもあたへ得ざりし隊長となる事こそ、訳なし、只々必中こそ吾等が生涯の総てなり。夜、隊員八名総員鶏のすき焼に酒を飲む。たのしかりき。
二時間待機、三時間待機とは、攻撃命令受領より発進迄二時間、三時間の余裕あるを云ふ。但し敵の所在を知り二時間三時間の余裕あると云ふも愛機の諸準備、航法計画、列機の面倒を見、また規約信号、天象地象の研究等、只に必中と云ふも至難にして、大死するに斯くも忙しく難きは搭乗員ならでは知る由もなし。怜悧にして明快、果断にして率先、計画的頭脳、統率的才能なくしては出来得ず、只不断の努力研究こそ良くそれを為し得る只一つの方法なり。
 〇八〇〇より何時出撃必中の命下るやを待ちながら平素通り実に皆、純真明朗、快として只々必中を念じ、その努力をなしつゝ、暇さへあれば野球、ドミノ、将棋、歌、食、寝、実に寸前に必死必中の命を待つ者とも思はれず。又そんな考へは毛頭ない。只大命一下それ、やるぞ、只それ丈、なるが故に生のよろこびを満喫するかの如く、無邪気な生活、すべての欲も未練も既に他界の事かと思はれる程あつさりしてゐる。日々の中にもやはり人間か、親の事は一日一回くらひは思ひ出される。
 燃ゆる殉忠の血潮、撃滅の闘志、必中の確信、日本男児として誰にも劣らざる気概はある。而し人間としての弱さか、生の不可思議、死の不可思議、それは未解のまゝ残つてゐる。而しそれは悩みとか、未練と云ふ意味ではない、軍人としてこの機を頂き、よろこびに耐へざるものだが、今俺は死して良いのかとも思ふ、否、今死んでもよい開戦の当初に引返す戦機を作るのだ。今こそ征かざれば征く時なし。
 今日の機を得ずして死して逝つた多くの友を思ひ、今こそこの壮挙に参加し得る自分の幸福を満喫し、必らず二十三年に生涯の生けるしるしをこめ、総力を尽して皇国のため必らず命中最後の御奉公を致さん。二〇〇瓩爆弾に国民の憤激をこめて、血と汗でなれる愛機諸共敵を太平洋の海底深く葬り去らん。
 昭和二十年五月十一日午前九時三〇分前後、皇国の一臣高光、総てのものに感謝しつゝ別れを告げん。明朝は三時半起し。つきぬ名残りもなしとせざるも明日の必中のために寝る。只皇国の必勝を信じ、皇国民の一層の健闘を幸福を祈りつゝ。
  五月十一日の朝は来た
  今より五時間後は必中する
  総べての人よさらば
  後をたのむ
  お父さんお母さん
  征つて参ります。
以上、引用元は白鴎遺族会編「雲ながるる果てに―戦没飛行予備学生の手記 (1961年) https://amzn.to/2H8zEIJ」(引用にあたって旧漢字は変換が煩わしすぎるので改めました)。
何度か出版社を変えながら復刊され、1995年には増補版の出版にも至ったとか。
本書出版の経緯は、同書序文のほか、「靖国のこえに耳を澄ませて―戦歿学徒十七人の肖像 https://amzn.to/30fFXBq」などにも掲載されていますし、いちいちチェックもできませんがいわゆる保守派(?)の出版物などに紹介される機会も多かったでしょう。

戦没学徒の遺稿集としては「きけわだつみのこえ」が有名ですが。
その編集方針は、
 初め、僕は、かなり過激な日本精神主義的な、ある時には戦争謳歌にも近いような若干の短文までをも、全部採録するのが「公正」であると主張したのであったが、出版部の方々は、必ずしも僕の意見には賛同の意を表されなかった。現下の社会情勢その他に、少しでも悪い影響を与えるようなことがあってはならぬというのが、その理由であった。
という恥ずべきものでした。
実に堂々たる「偏向」「検閲」の宣言であり、その臆面のなさはいっそアッパレとでも言うしかない、今に至るも変わらないいわゆる左翼のダブルスタンダードの極みでしょうか。
これにいち早く反発したのが、「わだつみ」から排除された戦没学徒の戦友や遺族たちでした。
昭和二十年三月に特攻戦死された高久健一命のご尊父彦太郎氏は、昭和二十五年にいち早く「きけわだつみのこえに抗す」の一文を草し、千五百部を印刷、第十三期予備学生遺族会(白鴎遺族会の前身)の慰霊祭で頒布されたとのこと。
孫引きで恐縮ですが、
私が言うまでもなく、真にわだつみのこえと題するならば全部の遺墨の中からそれぞれ異れる性格思想或は戦争観或は死生観を網羅して編集してこそ『きけわだつみのこえ』でなければならないのである。如何に無意義とはいえ斯る芳しからざるもののみを社会や国外に公開し是れが嘗つての大戦争に於ける日本全学徒軍人幾万の真相であるかの様に宣伝し、或は米国其の他の国々にまで御機嫌取り的欺瞞行為をなし、更に幾百万人の戦死者の悉くが斯の通りの犬死だ! と敵本主義的赤い太鼓を叩き、のみならず是を映画化せしめている実状である。斯る事は国民に対する精神的錯乱を企図し更に又幾百万の戦死者の霊と其の遺族に対する侮辱にして剰え社会の良識を誤らしむる惨酷行為と言わざるをえないのであります。
占領下の当時、彦太郎氏の身を案ずる声もあったといいますが(裏を返せばつまり「わだつみ」はまさに占領下の「閉ざされた言語空間」の産物だということでもあります)、氏の主張自体は大きな反響を巻き起こし、それが契機となって、やがて(主権回復後か)上梓にこぎつけたのが「雲ながるる果てに」だとか。

その遺稿を読んで、何を思うかは人それぞれでもあるでしょう。
しかし「人それぞれ」にゆだねられるためには、遺稿の真実が、正 し く、手渡されなければならないことは、当然の前提であるように思います。

本日、八月十五日。英霊の勲功や昭和の聖断に寄生し、「敵本主義的赤い太鼓」を叩いて、ダブルスタンダードな「表現の不自由」を日本人にのみ一方的に強制しようとする輩は、後を絶たないでしょう。
いわゆる「左」や敵国だけでなく、自称「右」の界隈でさえ、この日に関しては、的を外したパフォーマンスにふけりかねない、不可解な現状すらあるかもしれません。
産経ニュース:【正論】令和の8月に思う この御代に英霊達の名誉回復を 東京大学名誉教授・小堀桂一郎

八月十五日に英霊を想うというのなら、前掲の「雲ながるる果てに」、あるいは第十四期飛行予備学生の遺稿集「あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記 https://amzn.to/2Z3ifLI」、などなど……あからさまな政治的悪意による歪曲を経ていない英霊の言の葉、それこそ「靖国のこえ」に、「耳を澄ませ」てみるのも、悪くないのではないでしょうか。日本の「正気」を取り戻す、そのためにも。。
 ある特攻隊員は、ある夜ベッドの上で声を殺してむせび泣いていたという。しかし、その人は出撃の時には、莞爾として微笑んで離陸したそうだ。むせび泣いていたことだけをとらえて戦争の悲惨を訴えたり、莞爾として微笑んでいったことだけをとらえてその人のそこに至るまでの苦悩を憶念することを忘れたりしては、その事実全体の悲しみをとらえそこねるのではないか。
打越和子「靖国のこえに耳を澄ませて―戦歿学徒十七人の肖像」https://amzn.to/30fFXBq

Amazon:
雲ながるる果てに―戦没海軍飛行予備学生の手記 単行本 – 1995/7
雲ながるる果てに―戦歿海軍飛行予備学生の手記 (河出文庫) 文庫 – 1985/7
雲ながるる果てに―戦没飛行予備学生の手記 (1967年) 単行本 – 古書, 1967
雲ながるる果てに―戦歿飛行予備学生の手記 (1961年) - – 古書, 1961
雲ながるる果てに―戦歿飛行予備学生の手記 (1952年) - – 古書, 1952
posted by 蘇芳 at 15:14|  L 大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする