2019年08月12日

【動画】なぜ世界の中で競争する必要があるのか~言ってはいけない!?国家論 渡部悦和 江崎道朗


チャンネルくらら から。


動画概要:
2019/08/10 に公開
なぜ世界の中で競争する必要があるのか・富士通会長山本卓眞先生の思い出・仮想的を想定しない自衛隊
絶賛発売中!『言ってはいけない!?国家論 いまこそ、トランプの暴走、習近平の野望に学べ!』 渡部 悦和 江崎道朗 https://amzn.to/2ZTFJQv

江崎さんが後半で語っている山本卓真氏のエピソードに、さりげなく、先の戦争の敗因、という発想が登場しました。
話が飛躍するようですが、戦争というのは「敵」と「戦っ」て「勝つ」ためにやるものだという発想、もっというなら、戦争とは自分一国のみでやるものではなく必ず「相手」=「敵」があってやるものだという、当たり前といえば当たり前すぎる発想を日本人から奪い去ろうとし(そしてそれに成功し)たことこそ、WGIPの本質なのではないでしょうか。
そしてそれを幽かに聴き取つたとき、これまで自分が「戦争」といふことについて何一つ理解してゐなかつたことを知つた。同時に、あの覗くことのできなかつた闇の中に蠢いてゐたもの、そして闇の中に葬り去られたものが何であつたかを知つた。
 それは「敵」という一語である。
 この一語こそが「戦時中」をまさに「戦時中」にしてゐたものであり、またそれ故に戦後の人々がその燠のくすぶることさへ許さなかつたものであつた。
 われわれが戦後耳にする話の中では、東京大空襲で焼き殺された人々は「空襲にあつて死んだ」のであり、上海に上陸した途端、待ち受けていた中国兵に射殺された兵士も、硫黄島の坑内に手榴弾を投げ込まれて殺された兵士も皆ひとしく「戦争で亡くなった」にすぎない。広島と長崎で一瞬の内に爆殺された人々さへもが「原爆が落ちて亡くなった」のである。まるで原子爆弾はただ神様の手違ひで天からこぼれ落ちて来たのであるかのやうに。これはただ言ひ回しの上だけのことではない。日本人はあの戦争をふり返るとき、本当に一切「敵」といふ言葉抜きですませるのである。
 戦争から「敵」といふ事実を完全に無視して、片側の行為だけを描写すれば、これはただ気違ひの行為としか見えない。あるいはただ残虐の一語に尽きる。そして戦時中の日本人の行為を、まさにさういふものであつたとわれわれは教はつたのである。
長谷川三千子「からごころ - 日本精神の逆説」https://amzn.to/2yQNIBV
今月はちょうど折よく8月ですが。
8/15に向けて、戦争と反日似非ヘイワ主義をめぐる言説が、またぞろメディアを賑わせるのかもしれません。
地上波なり何なりで戦争映画が放送されたりすることもあるでしょうか。
しかして戦後七十ン年、前掲の長谷川三千子の著書が書かれてからだけでも三十三年が経過した現在、なお、それら戦争をめぐるメディアの言説の中に、はたして、「敵」という一語は、いったい、どれほど登場するでしょうか。

(余談ですが、飛行機を飛ばすことさえやっとの学徒動員の速成パイロットが、「敵」と「戦う」でも「殺す」でもなく、まして空母を沈めてきますでもなく、ただただひたすら「ガンバって死んできます」と言うのは、私の大嫌いな映画「連合艦隊https://amzn.to/2YGMvfR」ですが、これがAmazonあたりでは「カスタマーレビュー135件、5つ星のうち4.3」の大好評というのですから、WGIPの大いなる勝利を称えよとでも言っておくしかありません。
兵隊さんが可哀想だから、戦争するのはやめませう、という、畢竟、頭の悪い左翼プロパガンダ映画だと思うのですけどね……まあ、私の感性がずれているのかもしれませんが。あの映画において兵隊さんたちは間違いなく「ガンバッテ」いるのですが、「何のために」という部分がきれいさっぱり抜け落ちています。
実際のところ、「一死千殺」の意思を持った特攻隊が登場する日本映画というのは、かつてどれほど作られたことがあるのでしょう? そもそもまともに「敵」が登場する大東亜戦争の映画を、あなたはいくつ見たことがありますか?)

長谷川氏の前掲書はさらにこう語ります。
これは非常に危険なことである。何故ならば「敵」といふ言葉を失つた者が、次の戦争がおこらぬためにはどうしたら良いか、と考へようとしても、ただ自分の国を見張るしか策がないからである。ひよつとして(十分ありさうなことであるが)隣国ロシアが攻めて来たらばどうするか、そもそも攻めて来させない様にするにはどうしておいたらよいのか、といつた極く常識的な「反戦」の要心さへもが、一種の主義、主張であるかのごとく肩を怒らせなければ語れない(アメリカを要注意と見る人はあるが、それとて日米間の軍事衝突を懸念してのことではない。むしろアメリカを「自国」の一種と考へてゐるからである)。
これは本当に三十年前に書かれた文章なのかというところ。
江崎さんたちが共有している危機意識の根源も、畢竟、ここに尽きるという気さえしないことはありません。
それはつまり「敵」の喪失、あるいは剥奪という現実が、三十年前も今も何ら変わっていないということであり、またその「敵」の奪還こそが「味方(≒日本)」の再生に不可欠の要件だということでもあるのかも……しれません?

話を山本氏のリーダーシップ云々に戻しますと、先だってもこちらなどで反射的に揶揄してしまいましたが、知的ナンチャラ文庫等をはじめとするビジネス系の通俗本においては、カタカナで書くのが気恥ずかしいくらい愚にもつかない夜郎自大の「りーだーしっぷ論」の花ざかりがつづいているようです。
しかし考えてみれば、戦争・闘争・競争etc、「敵」と「戦う」というときほど、「リーダーシップ」を必要とする状況はないわけですし、「敵」という事実から目を背けたところに成立する「リーダーシップ」など原理的にありえないはずでしょう。
してみると、手を変え品を変えピント外れの愚にもつかない「りーだーしっぷ論」が、常に何の役にも立たない愚劣な定型文の劣化コピーの反復再生産に終始する原因も、それでもなお読者がそれを求めてやまない理由も、共に、この「「敵」という一語」の封殺・抹殺・剥奪という状況に起因している、と言って言えないことはないのかもしれません。
「敵」と戦うことを放棄して「リーダー」もへったくれもありませんからそんな言説は愚劣にならざるをえませんが。一方で、「敵」という言葉を捨てたからといって「敵」という現実が消えるわけでもなく、「敵」と戦って勝ちたい・勝たなければならないという要請、そのために必要な「何か」への欲求は、無意識に発生しつづけるはずでしょう。
しこうして役にも立たない「りーだーしっぷ論」は役に立たないまま消費欲求を満たすアイテムとして自己目的的に生産・消費されつづけるのかもしれません。

ならば、そんな中、「敵」と「戦う」という意識を失わず、先の敗戦に学ぶ意志さえ持っていた人物による「リーダーシップ」論は、傾聴に値する数少ない言説であるかもしれませんし、それが「国家論」に登場する必然性もまたそこにあるのかもしれません。
結局、「敵を知れ」ということですかね。。
他人のふり見てナントヤラ、役にも立たない定型文みたいな結論になりましたが💧

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posted by 蘇芳 at 01:42| 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする