AKIRA-Travel-Channel/ジャーナリスト大川原 明アキーラ海外見聞録 から。
動画概要:
2015/07/05 に公開
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パラオ最大の島であるバオブべダル島最北端にある日本統治時代に建てられ、米軍により爆撃破壊された旧日本軍灯台跡。廃墟にはなっているが、当時のままで残っている。双眼鏡が設置され、景色も堪能出来る。米軍により艦砲射撃や銃痕の跡が生々しく残っている。現地の人々により管理されている。
当時の日本軍人がここにいたと思うと感慨深いものである。平成25年(2013年)6月に9日間、太平洋に浮かぶかつての日本の委任統治領であるパラオを訪問しました。
パラオはかつて、ドイツの委任統治領でしたが、第一次世界大戦でドイツが敗戦をした結果、日本がパラオの統治をゆだねられ、30年程日本の委任統治領で会った場所です。通称パラオは、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国である。首都はマルキョク。2006年10月7日に旧首都コロールから遷都した。16世紀頃より、海運の進歩の結果ミクロネシア諸島にもヨーロッパ人が訪れるようになり、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきた。パラオも1885年にスペインの植民地下に入った。これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%程度減少したとされる。1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地となった。ドイツはパラオでココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った[1]。しかし、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラストラクチャーの整備や現地人への教育はほとんど行われなかった。
1914年に第一次世界大戦が開始されると、イギリスやアメリカなどと同じ連合国の一国であり、ドイツに対して宣戦を布告した日本が海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領した。
第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になった[2]。コロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しパラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった(軍人を除く昭和18年6月末時点の居住者33,960人の内訳:内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人)。
日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになった。
太平洋戦争末期に、アメリカ軍がパラオに侵攻してきた際に、南のアンガウル島やペリリュー島は激戦地となりペリリューでは日本人兵士約11000人が玉砕する(アメリカ軍死者は約8000人)程、激戦地となった。アメリカ軍が攻めてくる前に、日本軍はペリリュー島民を戦争の犠牲者にならないように本島へ移住させた。しかし、日本軍と一緒に戦うと島に残ったペリリュー島民も多くおりました。
今でもパラオは親日国であり、1994年独立の際は、尊敬する日本の国旗を真似て、国旗を作りました。初代大統領は日本人の血を引く日系人(現地人との混血)のナカムラ・クニオ氏です。日本はアメリカと並ぶパラオへの最大の援助国であり、それらへの感謝の碑をいたるところで発見します。
大東亜戦争でパラオというと一にも二にもペリリュー島が有名。
それはそれで当然でもありますが、パラオにペリリュー意外の島がないわけではなし、それらの島で戦闘が行われなかったわけでもないでしょう。ペリリュー島では、戦闘に先立って、民間人を避難させたことが美談として語り伝えられていますし、それはもちろん語り継がれるべきですが……そうして避難した先の島々が、それでは、いつまで安全だったのか?
歴史の真実~というのなら、日本人として、まだまだ、知っておくべきことは多そうです。
ペリリューに隣接するアンガウル島などはまだしも有名かもしれませんが……
それ以外の島々にも、当然、上の動画のような戦跡はいくらも残されているわけでしょう。
それらペリリューに比べれば現地ルポも少なくなる島々について、上のような動画は、貴重かもしれません。
「バベルダオブ島」というのも、あまり耳慣れない島名かもしれませんが……(別名「パラオ本島」のことかとは思いますが)
軽く調べてみれば、自称愛国保守のダイスキな例の橋がかかっている島でもあるようで。
Wikipedia:まさか島の名前を知らないでK国を云々したりはしていませんよね?というところですが。。
・バベルダオブ島
・日本・パラオ友好の橋
バベルダオブ島については、それとは別にもうひとつ、次のような話を見かけました。
コトバンク:バベルダオブ島(バベルダオブとう)とは「試みられている」というだけですから、商業的に成功しているのかどうか知りませんが……栽培してはいるようです?(断念とか撤退とかしていないことを願うばかり)西太平洋,パラオ西部,パラオ諸島の主島で,カロリン諸島最大の島。別称バベルトゥーアプ Babelthuap。最高点 217m。2006年,東部のマルキョクに首都が設けられた。古い石造遺跡がある。おもに熱帯自給作物を栽培。カカオ栽培が試みられている。島の南端にパラオ国際空港がある。面積 370km2。人口 3594(1990)。
最近でこそ沖縄や小笠原で国産コーヒーを~という話もないではないですが、本来、赤道周辺の狭い範囲でしか栽培できないとか聞くカカオ。だからかどうか知りませんが、南国土産というと、わりとチョコレートなども多く、パラオも例外ではないわけですが。。
パラオにおけるカカオの栽培については、実は、さらに次のような話もあるようです。
一般社団法人 太平洋協会(旧:社団法人 太平洋諸島地域研究所)JAIPAS:パ ラ オ の 農 産 業大正時代に委任統治領になったパラオで栽培されたカカオを使って明治製菓がチョコを作って昭和天皇に献上、と言ってしまうとオヤヂギャグのようですが、先だっての大正駅でヨーグルト~とかいう話よりは、まだしも、歴史の文脈を押さえているような気はしなくもありません。昭和13年(1938年)南拓は明治製糖株式会社と提携し、カカオ豆の生産を目的とする熱帯農産株式会社を設立した。当時カカオ豆の需要は漸増し、南洋庁も群島適作物としてカカオ樹の植え付けを奨励していた。同社はガスパンのカカオ栽培用耕地492ヘクタールに農夫約1,000人を入植させ、直営農場として開拓植え付けを進め、昭和15年(1940年)200ヘクタールの開墾を完了した。種苗はロタ島、セレベス島等より入手し植え付けが行われた。昭和16年(1941年)に最初の収穫があり、明治製菓でチョコレートが作られ、日本国内での最初の製品として昭和天皇に献上された。
別にその歴史が現在のパラオ土産に直接つながっているというわけでもないかもしれませんが(上のマカダミアチョコは「米国製」、ハワイとかと同じ南国枠か?)……かつて日本はガンバッタ。その歴史の一コマを思いだすよすがにくらいはしてみてもよいのでは?とも、思います。
「食」というのも、大事ですしね。。
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