昨日の続きというかそろそろまとめたい。
以前、こちらで、
井上毅はシラスと言い、ウシハクと言った。と書きました。
福沢諭吉は「帝室は万機を統るものなり、万機に当るものに非ず」と言った。
美濃部達吉は天皇機関説を説き、穂積八束や上杉慎吉は天皇主権説を説いた。
先だってこちらで言及した竹山道雄は、それを機関説的天皇と統帥権的天皇と呼んだ。
こちらの動画で倉山満は、それを「立憲君主」と「専制君主(≒傀儡)」と呼んだ。
今谷明なら、前者を権威と言い、後者を権力と言うのだろうか。
対立する双つの天皇観が、唱えられ、検討されてきた。
江戸時代の尊皇思想も、開府当初のそれと、幕末のそれとの間には、これらと同種な差異が内在しているように思います。
慶長勅版に端を発する江戸時代初期のそれは、後陽成天皇と徳川将軍の協働によって、権威と権力の分業を制度化するものとして「幕府」に思想的根拠を与えるものだったように思いますし、そこで提示されている「天皇」イメージは、つまるところ天皇機関説的・立憲君主的な権威に類するものだったように思えます。
それに対して、昨日、考察したように、流血の惨事のなかで、図らずも幕府が朝廷の「対立項」として意識されるようになり、二項のいずれかが消滅せずんば事態の収拾がはかりえなくなっていくとき、討幕のイデオロギーとして脚光を浴びたのが、幕末の尊皇思想でした。
「敵」と「味方」、「善」と「悪」という、単純な、しかしそれゆえに強力な二項対立の図式にはまりこんでいくとき、言い換えるなら朝幕の関係性が「協働」から「敵対」へと変質していくとき、尊皇思想の提示する「天皇」のイメージも、一視同仁の「シラス」それから、味方の先頭に立って敵を屠る「ウシハク」それへと、接近していかざるをえないものかもしれません。
実際、こちらで見たように、天皇は「宇内尽くうしはき給ふべき」と主張した尊皇の志士は実在しました。
天皇の「不親政」による立憲君主的な平時の政体。
戦国乱世を経て、天下統一の果てに、ようやく日本人が手にした果実が、それでした。
しかし、こちらで考察した幕府の不作為は、収拾のつかない内憂をもたらし、その政体の存続を(観念的に)不可能にしました。
観念的にトドメをさされても、現実の政体は悪あがきをつづけます。命脈の尽きた政権には、現実の領域で、誰かが引導を渡してやらなければなりません。
そこで「討幕」という有事のイデオロギーとして要請されたのが、統帥権的な専制君主的な天皇「親政」のイメージだったのではないでしょうか。
徳川家康は源頼朝を尊崇していたといいます。家康が江戸開府にあたって、頼朝の幕府を徹底的に研究しなかったはずはないでしょう。
後陽成天皇と家康が思い描いた幕府とは、本来、後鳥羽上皇と源実朝によって実現されるべきはずだった、可能性としての鎌倉幕府の復活であった、とも、言えるかもしれません。
しかし、実朝は暗殺され、鎌倉幕府は変質し……最後には後醍醐天皇の「親政」によって倒されます。
歴史は繰り返す……などと安易に決め台詞を言いたくはありませんが、天皇不親政の平時の体制が機能不全を起こしたとき、一切をいったん「チャラ」にして新規まき直しをはかる、そのために常に発動する切り札こそ、平時にはあくまで潜在的な可能性として留保され、忘れ去られているはずの、この天皇「親政」という「伝家の宝刀」なのかもしれません。
しかしながら、歴史はさらにくりかえす、というべきでしょうか?
建武「親政」はわずか2年で破綻し、幕府を倒した足利によって、結局、新たな幕府が作られることになりますが……
徳川幕府を倒して成立した明治新政府も、結局のところ、天皇親政ではなく、不親政の立憲君主政体を目指すようになります。
しかし、動乱の後遺症というべきでしょうか。あるいは天皇親政という「禁じ手」に訴えた報いというべきでしょうか。
足利幕府は長期にわたって下剋上的内ゲバに苦しめられることになりましたし、明治新政府は維新の功労者でもあった「不平士族」の弾圧というさらなる内ゲバをくりかえすことになります。
また、冒頭の引用にみるような、相反する「天皇」イメージの相克は、明治以降、国内の分断・対立、テロやクーデターを扇動するイデオロギー装置として、いよいよ不吉な凶悪な呪力を獲得していったようにも思えます。
こちらの動画で倉山満は、専制君主の頽落した形態を「傀儡」と呼びましたが……近代において、統帥権的・天皇主権説的・専制君主的「天皇」の親政を主張した者の多くは、その実質において、天皇を自らの傀儡として利用しようとした不忠者、国賊の類だったのではないでしょうか?
昭和天皇を顎で使って社会主義革命を起こそうとした北一輝などは、その典型というべきかもしれません。
結局のところ、こちらで書いた通り、明治維新の必要性、なかんずく討幕の必要性の有無については、しっかり検討する価値のある課題ではあるでしょうが、せっかくのその「検討」が、薩長はテロリスト云々式の、感情的な(つまるところ思考停止的な)罵詈雑言に終始するだけであれば、不毛というものでしょう。
薩長主導の明治維新に、批判すべき問題がもしあるとすれば、それは、薩長がズルいだのキタナいだのといった倫理的な断罪ではなく、天皇親政という「禁じ手」に訴えた結果、国体に関する思想的な混乱・動揺の種を撒いたことにこそ、見出されうるのではないでしょうか?
もちろん、他にやりようがあったのかといえば、なかったかもしれませんし、討幕成ったあとは冒頭引用の井上毅や福沢諭吉に見るように、思想的な修正作業が始まってもいます。そこは高く評価されるべきでしょう。
しかし、「薩長史観」の勧善懲悪から、逸脱するわけにもいかないのが、明治新政府でもあり、彼ら自身による討幕イデオロギーの修正には、宿命的に、しどろもどろの歯切れの悪さがつきまとうようにも思えなくはありません。
もっとも、実際に「賊軍」と砲火を交わした明治の元勲が生きてある間は、「しどろもどろ」だっただけ、まだよかったのかもしれません。
イデオロギーが恐ろしいのは、むしろ、「迷い」を失って疾走しはじめるときでしょう。
明治の元勲が神格化され、維新の大業が批判を許さない権威となりおおせていくときにこそ……天皇傀儡化の情動は、根絶しがたい雑草のように、かえって執念く人心を蝕んでいったのではなかったでしょうか? 大正や昭和に「維新」を叫んだ自称愛国者が、いったい、何を「やらかし」てくれたことか。私たちは銘記する必要があるのではないでしょうか。
そうした事態を事前に見通し、根絶の先手を打てなかったからといって、明治の元勲に無限責任を負わせるつもりはありませんが……
反日左翼史観はもとより、薩長史観からさえも自由になりうる現代においてなお、一定数の自称愛国者が、「尊皇」や「愛国」について、かつてと同じような思想的混乱から自由になりきれていないのだとすれば、それは、やはり、問題であるように思うのです。
歴史の「悪者さがし」も楽しくはあるのですが……
悪者と対峙する以前に、自らの愚かさから自滅してしまっては、話にもなりません。
そうした「自滅」を予防するという観点からいえば、
平時の立憲君主と、有事の専制君主。そして後者から派生しうる傀儡の誘惑。
そうした「君主」観念について理解を深めることも、「悪者さがし」と同等かそれ以上に、有用であり、必要ではないでしょうか。
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