2019年05月04日

並び立たず


昨日、何か記事が脱線というか暴走しましたが。
ついでだからもう少し江戸幕府について勝手な御託を並べておくと。。

こちらこちらこちらなどなどで書いた通り、尊皇思想というのは幕末の専売特許でも何でもなく、昔からあるものですし、特に江戸幕府開府当初には非常な盛り上がりを見せたようです。しかもその思想の積極的保護育成者は、尾張義直、水戸光圀、保科正之など、徳川の一門でした。
「征夷大将軍」が天皇の臣下以外の何ものでもない以上、「天皇」の何たるかは、幕府にとってこそ死活的に重要だったはずであり、江戸時代初期の尊皇思想の盛行も、本来、怪しむ必要もない、自然なことだったとも思えます。
また、実際、こちらで書いた「三代目の危機」を乗り越え、幕府は二百数十年の長きにわたって存続するのですから、統治システムとして十分な成功をおさめたといってよいでしょう。その成功を根底において支えた思想的根拠が、日本の国柄から大きく乖離したものだったとも考えにくいように思います。

「幕府政権の安定に寄与した徳川主導の尊皇思想」
それが、なぜ、いつのまに逆転し、幕末においては、外様主導の討幕のイデオロギーになりはててしまったのか?
ちょっとした謎のようにも思えます。

説明の仕方はいろいろありうるのでしょうが、最近、個人的に思うようになったのは、幕府は「成功」しすぎたのではないかということです。
そう言うといかにも奇を衒っているように聞こえるかもしれませんが、そういう気の衒い方自体がありふれたものですし、特に目新しいことをいいたいわけでもありません。

天皇不親政の伝統。君臨すれども統治しない立憲君主的な天皇のあり方を「権威」と呼び、摂政・関白・将軍など政治の実務を代行してきた臣下のあり方を「権力」と呼んだ論者には、今谷明などがいたと思いますが。
江戸時代初期の「尊皇思想」が想定したわが国のありようもまた、「幕府」というシステムの構造上、当然、そうした権威と権力の分業体制(後に言うところの大政委任論)だったことでしょう。
わが国の国柄からして、平時の統治システムとして、それ以外のものは事実上ありえない、とも言えるでしょうし、こちらこちらなどで慶長勅版についてくりかえし考察したように、そうした権威と権力の分業体制は、時の後陽成天皇の大御心に背くものでも決してなかったように思います。

だからこそ江戸幕府は長期にわたって「成功」したのでしょうが……

その「成功」が長期にわたればわたるほど、幕府自体が、単なる権力の代行者の域を超えて、やがて独自の「権威」を獲得し、高めていくようになることも、また、必然的ななりゆきだったように思います。
つまるところ、権威と権力の「分業」は、成功すればするほど、いつしか、権威と権威の「並立」、権威の「二重化」へと、接近していってしまうパラドックスをはらんでいるものではないでしょうか。

いつまでも太平の世がつづくのであれば、それで問題もなかったかもしれません。
しかし、言うまでもなく、幕末には、欧米列強の侵略の魔の手が日本にも迫りつつあり、その国家的危機の中で、幕府内部の内輪もめが、やがて、幕府の枠を超えた流血の惨事を招くに至ったことは、他でもない、まさに昨日の記事で考察した通りです。
それは「尊皇」vs「佐幕」という観念的かつ単純極まる二項対立が、現実の流血を見ることで、実体化されていく過程のように思えますが……そもそも、徳川が吹けば飛ぶようなチンケな存在だったなら、そのような二項対立の成立する余地はなかったとも言えるのではないでしょうか。
「尊皇」vs「佐幕」という観念的かつ単純極まる「二項」対立が成立可能だったということ。それすなわち、一方の極にある「天皇」という項に対して、それに匹敵する対立項として観念されえたほどに、徳川の「権威」は強大化していたということであって……それこそ徳川の「成功」の証とも言えはしないでしょうか。そして同時に、「命取り」でもあったのだと。。

上で書いたように、権威と権力の分業は、わが国の「平時」の統治システムとして、事実上の最適解に近いもののように思いますが……
しかしながら、「平時」に対しては「有事」があり、天皇「不親政」に対しては天皇「親政」の要請が、常に水面下で潜在していることも、また、否定できないわが国の「伝統」のように思います。
天皇不親政が「常に」「絶対的」に正しいのであれば話は単純ですが、こちらで書いた通り、決してそうではない。
「権威」のみならず本来は「権力」もまた一元的に天皇に属するものであり、世俗の「権力者」はあくまで、その「権力」の行使を天皇から委ねられ、認められているにすぎない。この原則が、現実的にはどれほど建前めいて聞こえたとしても、それこそ現実の権力を根底において保証する思想的根拠は、つきつめれば、ここに帰着せざるをえないに違いありません。
天皇親政という伝家の宝刀は、抜かないことに意味があるとはいえ、抜かないことに意味を持たせるためには、抜くこと自体は常に可能でなければならないでしょう。
そして、国民の間に、「国難」「有事」の意識が高まれば高まるほど、その伝家の宝刀への期待が高まることも、必然です。

諸外国による侵略の危機のなかで、将軍継嗣問題の内輪もめにうつつを抜かす幕府、その内ゲバの果てにアサッテの方向で流血の惨事を招いた幕府、流血の連鎖の中で実体化されていく国論の二極化。。
不作為によって日本国民分断の危機を招来した幕府という「権力」が、あげくのはて、天皇に「匹敵」し「対立」する「権威」的存在としてさえ、観念されるに至ったのだとしたら……
それはますます分断を深刻化する一方であって、その負のスパイラルを断ち切る方法は、幕府が一方的に朝廷にひれ伏すこと以外にありえなかったかもしれません。しかし、なまじ成功した「権力」であり、その成功のはてに一定の「権威」まで獲得していた幕府にとって、今さらそのような一方的服従は容易ではなかったでしょう。(そもそも、天皇不親政の伝統に立脚するなら、天皇に親政をお願いすることこそ臣下としての責任放棄であり不敬の極みといえなくもありません)
当時、盛んに唱えられたいわゆる「公武合体」は、そうして進退窮まった幕府が、朝廷に哀訴した苦肉の策だったかもしれませんが……
「合体」というその表現自体が、単なる主従関係以上の対等性を含意してしまっているようにも思いますし、和宮降嫁というイベントなどに至ってはむしろ徳川の「増長」を可視化し、反感を煽る効果さえ発揮しかねないものだったような気もします。

やはりどうにも幕府は「詰んで」いるというか……

「尊皇」vs「佐幕」とは、本来、ありえない、冗談のような対立(当時、「尊皇」でない「幕臣」などがいるものですか)ですが。。
しかし、流血によって、ひとたびそれが実体化されてしまった以上、その二項対立を解消し、日本国民の統合を回復するためには、畢竟、二項のうちのどちらか一項が消滅するよりほかはなかったのかもしれませんし、わが国において「尊皇」という項の消滅がありうべからざるものである以上、「佐幕」のほうが消え去る以外の選択肢はなかったのかもしれません。
われながら、さすがに、あまりに観念遊戯的な説明にすぎるとは思うのですが。。
俗に、両雄並び立たずという……本人たちの意思を置き去りに、気づけば、のっぴきならない瀬戸際に追い込まれているという、そのカラクリには、意外と観念的な、俯瞰すれば悪い冗談のようなものが作用している一面も、ないとは言いきれないものではあるのかもしれません。

また例によってまとまりのない長文になりましたな💧

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posted by 蘇芳 at 03:16| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする