2019年01月29日

【動画】すばやく学ぼう!世界の百年 第13回「7世紀の世界 イスラム教の登場」


チャンネルくららから。


動画概要:
2014/11/10 に公開
イスラム教のはじまりとムハンマドのアラビア半島統一。

蘇我氏というと「日本書紀」では崇仏派という位置づけにもなるわけですが。
世界的に「激動の時代」だったとして、その激動の背景にはすべて宗教(世界宗教)が影を落としていたことになりそうかもしれません。
まったくもって迷惑千万。思わず「宗教はアヘン」とでも言いたくなりますが。歴史的にはそれを言った本人が人類史上最悪のカルトの教祖サマだったという皮肉。
人間にとって「宗教」とは何なのか。日本人のチャランポランさは日本人自身にとっては良いものでもありえますが、「敵」から見ればつけこむ隙でもありますから、多少は、しっかり考えておくべきかもしれません。

巷間、二言目には、日本は宗教に「寛容」なの~などと言いだすお人もいますが。
私は決してそうは思いません。
むしろ言葉の選び方によっては「頑迷」かつ「不寛容」とも言えるのではないかと思います。(そして、それでよいと)

こちらなどでも書いてみましたが、ヒンドゥー教の多神教世界を背景に出現した仏教は、もともと、多神教の神々を「家来」として「従属」させやすい構造になっているようです。その「多神教」をヒンドゥー以外のものに取り換えることも容易であろうこの構造を、日本向けに翻案すれば、「護法善神説」や「神身離脱説」は簡単に導き出すことができるでしょう。
しかし、こうした初期の神仏習合説に終始することを、蘇我氏を滅ぼし、道鏡を排除し、南都を捨てて……結局のところ、日本はよしとしなかったように思います。
現在では「護法善神説」や「神身離脱説」などといった名前を知っている日本人のほうが少数派でしょう。
大方の日本人にとって神仏習合といえば「本地垂迹説」の一点張り。
しかもそれさえも、あくまで戦後反日歴史教科書の仕業であって。
実際には、日本人は「仏」を本地とする仏主神従の説にも飽き足らず、その後さらに、渡会や吉田によって、神主仏従の習合説が説かれるに至り、武家政権の神道政策は吉田流に占められていくようにもなりました。江戸時代にはさらに過激な仏教排除の儒家神道がいくつも出現したことは、当ブログでは何度か指摘してきたとおりです。

これは、単純に仏教を「受け入れ」た歴史というよりは、1000年の時をかけて仏教を骨抜きにしようとしてきた歴史とも思えます。
ギリシャ・ローマの多神教を「捨て」、挙げてキリスト教に「改宗」した西洋の歴史に比べて、あくまで従来の信仰の存続と地位向上に固執し続けた日本のどのあたりが、外来の世界宗教に対してより「寛容」だと言えるのでしょうか?
日本人の目からすれば、キリスト教に限らず、共産主義にせよ、リベラル・ポリコレにせよ、カルトを「受け入れ」るときの西洋の徹底した「寛容」ぶりと無警戒にこそ、むしろ、驚かされるのではないでしょうか?

仏教以外の宗教についてもそうです。
石平や黄文雄、ケント・ギルバートなど、中華世界に詳しい論者がこぞってその危険性に警鐘を鳴らし続けるのが、日本に伝来したもう一つのカルト≒儒教ですが。
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日本書紀の時代にはすでに日本にも伝わっていた儒教。かつては「明経道」とも呼ばれ、律令国家には専門の役所まであったわけですが……
Wikipedia:明経道
裏を返せば、早い段階で宗教性を失い、さらには学問としての地位も紀伝道や文章道に追い抜かれていくことになったのではなかったでしょうか。
日本人は仏教に対しても第一義的には「鎮護国家」や「現世利益」を要求しましたが、儒教・儒学に対してもあくまで国家経営や国民生活に「役に立つ」ことを求めたのかもしれません。実践的な知恵の源泉として考えたとき、究極的には九冊(四書五経)しか読むべきものが無い儒教に対して、教材が無限に増殖しうる歴史や文学のほうが、よほど「役に立つ」のは、むしろ当然というべきだったかもしれません。

結局のところ、日本人は、昔から、「現金」な民族性だったのかもしれません。
「現金」というとあまりいい意味で使われることもありませんが……
「現実的」とか「プラグマティック」とか言ってもよさそうですし。
また、そうした「俗」っぽさこそが、「聖」なる狂気から日本人を守ってきたという側面もあるのではないでしょうか。

そういう意味では、愛国をこじらせ過ぎて、神の国~などと言いだすのも、時としては危険というべきか。こちらで石原莞爾をはじめ、宮沢賢治や北一輝、相沢三郎などなどなどが、田中智学の日蓮系カルトにはまっていたことに触れましたが……ついでにいえば北一輝などは国家社会主義という別のカルトにも首までどっぷりハマっているわけで。自虐史観払拭も結構ですが、それが済めば、今度こそ「正しい」歴史を追究するなかで、彼らの安直さについても直視すべきような気はします。

イスラムから話が全力で遠ざかりましたが……
脳内お花畑な戦後日本人がまたぞろ勘違いの「寛容」を発揮しないことを祈るばかりといったところでしょうか。
よもぎねこです♪:イスラム

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西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム


追記:
余談ですが、日蓮の名誉のために言っておくと、石原莞爾たちがはまったのはあくまで田中智学らによるカルトであって、日蓮宗そのものとは区別すべきなのでしょう。
また、神風伝説の主役のように思われがちな日蓮ですが、同時代の史料によれば、加持祈祷によって神風を吹かせたと主張していたのはむしろ他宗の僧侶たちであって、日蓮はそれを批判していたという説もあるようです。
神風≒台風。しかも超ド級のそれですから、「被災」するのは日本も同じ。日本の船も沈むでしょうし、農作物も大打撃。日蓮はそちらに目を向けていた、とか何とかいう話もあるようで。それもまた伝説かもしれませんが。「言われてみれば」な話ではあります。