2019年01月20日

【動画】平成は大化から何個目の元号?【CGS 斎藤武夫 歴史の授業 第16回】


ChGrandStrategy から。


動画概要:
2019/01/14 に公開
今回は「大化の改新」についてお話していただきました。

聖徳太子が定めた天皇中心の国家を揺るがす大事件、その立役者についてお話していただきます。

日本が日本たる所以である2つのポイントに注目しました。

蘇我氏だけが悪くて聖徳太子は絶対無謬のようにも聞こえますが……
聖徳太子が作った体制を支えていたのが、他でもない、蘇我馬子ですし。
聖徳太子は積極的に物部を滅ぼしてもいますし、馬子が崇峻天皇を弑逆したときにも特にお咎めになったという話も伝わっていないようです。

それに対して、天智天皇を補佐したのは、中臣(藤原)鎌足。中臣はもともと、物部氏とともに、仏教導入に反対していた一族ですし、天智天皇自身、蘇我氏とは血のつながりのない天皇でした。

聖徳太子とその子孫が結局のところ皇位に就かれることなく終わったことと考え合わせてみても、聖徳太子と天智天皇を単純に同一線上に並べて論じることには、個人的には違和感を感じなくもありません。

両者を比較するなら比較するで、その差異にももう少し注目してもよさそうな気はします。
もちろん、史料の乏しさは難点ですが。。
「日本書紀」からだけでも内政の背景を為す国際情勢については、それなりの示唆を得ることができるように思います。

こちらでも書いた通り、内戦もまた往々にして国際情勢に強いられて起こりうるものだとすれば、聖徳太子にとっての隋、天智天皇にとっての唐の存在を無視して、国内の改革を語ることもできないことになるでしょう。(隋・唐の王朝交代は618年、乙巳の変は皇極天皇4年(645年))

欽明天皇の御代に百済の聖明王が仏像・経巻を献上してきますが、その背景には、新羅との抗争があったでしょう。しかしてその抗争の遠因は、「書紀」の伝えによれば、宗主たる大和朝廷が、継体天皇の御代に百済を甘やかした(任那四県割譲)ことだとも言います。
隋の煬帝が仏教を信奉している(と自称している)ことも、百済経由で情報が入っていたとすれば、仏教を軸に展開する、聖徳太子の内政も外交も、こうした一連の流れのなかでとらえるべきかもしれません。
その百済は天智天皇の御代にいよいよ本格的に唐・新羅連合に滅ぼされますが。白村江の敗戦を経てなお、それで日本が滅んだわけではなく、むしろ唐の侵攻に備えるべく、城を築き、防人を動員し、律令体制の構築が急がれ……天智・天武・持統朝を通じて、日本の国家意識はかえって勃興期を迎えることにもなっていきます。その過程で起きた内戦(壬申の乱)も、そうした対外的危機の相の下でとらえなければ、片手落ちになりかねないかもしれません。

結局のところ、後世「一所懸命」の鎌倉武士が、恩賞のない祖国防衛戦争に挺身した元寇のように、西洋列強の脅威の前に維新を断行した志士たちのように、国難にさいしてこそ、「国家」の輪郭は明らかになるものなのかもしれません。また、明らかにしなければならないものなのかもしれません。

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国難の日本史
右も左も誤解だらけの立憲主義
posted by 蘇芳 at 20:34|  L 「CGS 斎藤武夫 歴史の授業」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする