2018年12月31日

受容と排除



こちらの動画などのように、日本は宗教すら受け入れるスゴイ国なのです~的な自慢は後を絶たない。
当方としては、全面的には否定しないが、全面的には賛同しない。

日本はキリスト教を受け入れたか? 受け入れるべきか?
日本はイスラム教を受け入れたか? 受け入れるべきか?
日本は共産カルトを受け入れるべきか?

仏教と同じレベルで大々的かつ国家的に受け入れた「宗教」が、仏教以外に何かあるか?
(儒教も道教も受容は部分的。儒教に至っては儒「学」に転化した)

日本は「宗教」であれば何でもかんでも「受け入れ」てきたわけではないし、「受け入れ」るべきでもない。
中世近世のキリスト教は言うに及ばす。こちらで軽く言及したが、平間洋一によると、かつてロシアのムスリムなどは、明治天皇の「改宗」を本気で妄想していたというhttps://amzn.to/2BOVFc3。倶に天を戴かざるの敵という他はない。
自分たちのみが「普遍」を手にしているという増上慢は要するに中華思想と同じナチュラルな侵略性向である。地理的な中心を持たない分かえって悪質とも言える。
異教の排除こそが日本を日本たらしめてきた面があることに疑いはない。

にもかかわらず、仏教にかぎっては、なぜ、かろうじて「受け入れ」が可能だったのか?
単に日本だけが凄かったからではないだろう。
仏教もそれ相応に凄かったからではないのか。
その反面を見落としではならない。
日本は主体的意思によって仏教を「選択」したのであって、何でもかんでも「受け入れ」たわけではない。たとえて言うなら、きちんと相手を選んで結婚したのであって、誰彼かまわず股を開いたわけではない。

鎌倉にある天台系のお寺の住職(?)らしい人の著書に、次の一節があった。
 また、日本で非常に人気のある大乗仏教の代表的なお経である『妙法蓮華経』(『法華経』)には、「仏典でなくても、世俗の書や異教の聖典であっても、『法華経』を学んだ者の目から見れば、すべてこれを活用することができる」という言葉があります。
 これは驚くべき言葉です。
 普通、違う宗教同士が出会えば、少なからず衝突します。とりわけキリスト教やユダヤ教、イスラム教などの一神教では、お互いがごく近縁の宗教でありながら歴史上、激しく対立してきましたが、この点、仏教は逆にすべて呑みこめるものは呑みこむという独特の発展をしてきたのです。
確かにこれは「驚くべき言葉」に違いない。何となれば、上の引用の「仏教」を「日本」に置き換えれば、そのまま、自称保守派の自慢とほとんど区別がつかなくなるのだから。

これは、日本人の著者が書いたからこういうとらえ方になるのだろうか? 多少はそういう傾きもあるかもしれない。「法華経」が「日本で非常に人気」であることも、故ないことではないだろう。
しかしそれでも、「法華経」そのものを日本人が書いたわけではない。その「驚くべき」信仰のあり方は決して「日本」だけの専売特許ではないのだ。

日本は確かに凄かった。
しかし、仏教の側も、実に、しっかり、凄かった。
だからこそ、「相互」の「受け入れ」が可能だったのではないか?

この相互性を見失って日本だけが凄かったかのように錯覚することは、自尊心をくすぐりはするが、かえって、「一方的」な受け入れという名の売国に道を開きかねないのではないだろうか?
祝詞に言う。「神問はしに問はし給ひ。神掃へに掃へ給ひ」と。まずは対話を試みるとして、共存不能の相手と見極めれば、掃いて捨てることを忘れてはならない。
何を受け入れるべきかは、何を受け入れるべきでないかと表裏一体。「受容」と不可分の「排除」の意思を見落としてはならない。
現に石平などに言わせれば、https://amzn.to/2EOT1qp、仏教受容の反面が儒教排除であり、有名な「日出る処の天子」の国書も、世界宗教(仏教)で中華思想(儒教)を相対化するものだったのだとか。

こちらの動画はまさにその聖徳太子をめぐってのものだったが……記事本文中にも書いたように、聖徳太子は三経義疏の著者でもある(とされている)。その三冊の中で最も日本人に親しまれてきたのが、他でもない、「法華義疏」であることは、偶然だろうか?

しかしなお、その仏教ですら、日本に伝来した当初にはこちらで書いたような騒動を巻き起こした。
ましてこれがキリスト教やイスラム教の類だったら? ぞっとするとしか言いようがないだろう。
よもぎねこです♪:イスラム

上で引用した住職の著書には、次の一節もある。
 「戦勝祈願」というのはイメージからしておよそ仏教らしからぬことですが、大乗仏教では明確に護国思想があり、横暴な侵略者から国を護ることは否定されていません。
 殺されてもいいからこちらは決して攻撃してはいけない……などというのは、はっきりいって、個人の思想としてありえても、大乗の考えではありえません。昆虫のような存在でも殺されそうになれば、到底叶わないまでも戦おうとします。「徹底して非暴力」というと聞こえはいいですが、そのような考えを人に強要することは、おとなしくそのまま死ねというようなものです。
 ノーベル平和賞に輝くダライ・ラマ法王猊下がいらっしゃったチベットでさえも、中国共産党の理不尽な侵略行為には、ある程度までは武力であらがったのです。残念ながら乗っ取られてしまいましたが、理不尽な侵略行為に断固立ち向かう態度を示すことは、決して間違いではないはずです。
無限の寛容は国を亡ぼす。

こちらの動画の神谷氏は、保守派の愛国者とのことで、もちろん、反日左翼のような愚劣なデタラメは言ってはいないが。古代の仏教の受容と、近世のキリスト教の排除の対比が、やや甘っちょろい気はしないでもない。
キリスト教に対する日本側の対応には、仏教とは異質な一神教の「本質」が、神谷氏が言うよりももっと、それこそ本質的にかかわってはいないか?
「マリア観音」は、大乗仏教の仏像としてこそ可能であり、キリスト教的には異端であろう。
極端な話、日本の切支丹など、欧州においては、秀吉・家康の比ではない弾圧と拷問の末に一人残らず虐殺されかねなかったのではないだろうか。

くりかえすが、無限の寛容は国を亡ぼす。日本は宗教すら受け入れるからスゴイのではない。受け入れてもよい宗教と、排除すべき宗教。その選択を最終的には(少なくとも近代以前は)間違えなかった。その判断力こそスゴカッタのではないだろうか。この「スゴイ」を現在形で書き続けることができればよいのだが。。

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ラベル:仏教
posted by 蘇芳 at 16:06| 仏教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする