2018年12月30日

清麻呂以前以後



「日本書紀」や「続日本紀」を素直に読んでいると思わず仏教が嫌いになってしまいそうです。
その公伝自体、百済からの献上であって、政治的な背景(新羅との抗争)が大きいですし。
その結果たるや、崇仏・廃仏の争いを巻き起こし、饒速日命以来の名門物部氏は滅亡するわ、崇峻天皇は弑逆されるわ、蘇我氏は増長して日本を乗っ取らんばかりのありさま。こんな迷惑な献上品もないといいたいレベルです。
百済はやがて滅亡しますが。ちょうど白村江戦のその頃には、唐の武則天がチャイナで仏教政治を行っており、つまるところ仏教自体が間接侵略の道具になりかねない情勢だったかにも見えます。
「続日本紀」の時代に入ると、聖武天皇の仏教政治が花開きますが、それが同時に、天武系皇族同士の血で血を洗う抗争を招き、ついには天武系皇統の断絶にまで立ち至ったわけですし、何より、その弊害の極限において道鏡事件が勃発したことは日本仏教史上における最大の汚点と云うべきではないでしょうか。

こちらこちらなどでくりかえし見てきたように、江戸時代初期の儒学者は「古事記」ではなく「日本書紀」によって尊皇思想に目覚めたかに思えますが。だとすれば、彼らが同時にこちらなどで見たような仏教嫌いに傾いていったことも、むべなるかなというべきでしょうか。
しかしながら……
同時に気になるのは、彼ら江戸時代の尊皇思想家が、その古代史の中に見出した英雄・和気清麻呂と仏教の関係です。
和気清麻呂はこちらで書いた通り、中世頃までの史観では、それほど重視・顕彰されていたわけではなかったようです。それを救国の大英雄・大偉人として改めてスポットをあてたのが、他でもない、江戸時代の「大日本史」。つまるところ水戸学ですが……
水戸光圀といえば、こちらで書いた通り、江戸の仏教嫌いの最たるものというべきでしょう。
仏教が国柄を汚したと考え、神仏分離政策を推し進め、八幡宮さえも圧迫したらしい光圀にとって、国体護持の英雄・和気清麻呂が、同時に、平安新仏教の熱心な信徒でもあり庇護者・育成者でもあった事実は、どのように消化されているのでしょうか?

専門家でもない当方、「大日本史」も「神道集成」も、直接、一次史料を精査したわけでもないので、確信があるわけではありませんが……

最もシンプルな回答は、やはり、平安遷都を以て、それ以前・以後の仏教に、決定的な断絶が生じたと見ることでしょうか。
一口に「仏教」といっても、それ以前とそれ以後では、もはや別物というべきほどに変化した。その立役者こそ和気清麻呂であり、最澄であり空海である……と。

平安時代。最澄、空海によって創始された新しい仏教は、いずれも密教でした。それが現世利益を説いたことは教科書等にも明記されていますが……もう一つ、画期的な特徴として、彼らが「自性清浄」を説いていたという話を、こちらで引用しました。その引用はあくまで神道学者の言い分でしたが……
仏教の側が日本の伝統宗教に接近してきたこと、神道にとって許容しやすい形に仏教自体が変容してきたことが、かえってよくわかるというべきかもしれません。
奈良時代以前の神仏習合説は、こちらで見たように、完全に仏教優位の神身離脱説や護法善神説でしたが……
天台宗・真言宗がそれぞれ山王神道・両部神道を構築し、発展させてゆく中で、やがて平安時代も末には有名な本地垂迹説が形成され、神と仏は形式上、同格にもなってゆきます(なおまだ仏が本地ですが)
もちろん、天台宗も真言宗も時代を下るにつれて堕落してゆき、それら既成仏教への批判から、やがてまた様々な新仏教が派生してゆくことにもなるのでしょうが……別の言い方をすれば、それら新仏教はあくまで天台宗・真言宗を母胎として生まれてきたのであって、奈良~平安の断絶とは様相を異にしている、とも、言えるかもしれません。
新仏教の先蹤となったのは法然の浄土宗あたりかもしれませんが。その法然がそもそもは比叡山の僧侶であり、天台宗の教学を学んだ結果、専修念仏の思想に到達したのが、好例でしょうか。
Wikipedia:法然
最澄が道鏡に恩義を感じるいわれはまったくさらさら完璧にありませんが。法然は最澄に恩義を感じてもよいはずです。

つまるところ、皇位簒奪の危機さえも招来した百済からの「迷惑な献上品」を、いったんリセットして、まったく新たに仕切りなおしてリスタートさせた。和気清麻呂や最澄、空海が作り上げた平安新仏教こそ、私たちになじみ深い「日本仏教」の本当の意味でのルーツなのかもしれません?

仏教とは、元をただせば、釈迦国のゴータマ・シッダールタが創唱した新興宗教ですが。
極度に原理主義的な立場からいえば、ゴータマの生前、ゴータマ自身によって直截に説かれた教えのみが、本来の純粋な仏教である、とも、言えないことはないかもしれません。
その立場からすれば、ゴータマ入滅後に作られたすべての教説は、所詮、ゴータマジャンルの二次創作にすぎないということにもなるでしょうか。
当然、インド・チベットをはるか遠く、日本にたどり着き、いったん断絶し、日本人の手によってあらためて日本人に受け入れやすいように再編成された「仏教」もまた、そうした二次創作のひとつであるはずでしょう。
実際、ゴータマ自身は想像もしなかったような、ナントカ菩薩やナントカ王やナントカ天やカントカ観音などなど……そうした「キャラ」は、日本人に親しまれれば親しまれるほど、ホトケであると同等かそれ以上、カミに近い存在に変化していくような気がしないでもありません。
本家仏教とは似ても似つかぬのか、似ているようで全然違うのか、まったく似ていないようでいて本質は同じなのか、わかりませんが……そうした二次的性格のなかにこそ、「私たちの日本仏教」の真骨頂が潜んでいる。のでしょうか?

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追記:
和気清麻呂というと京都御所に隣接する護王神社の御祭神として有名ですが。
ちゃんと(?)お寺にお墓もあるのだそうで。神護寺といえば、最澄、空海ともゆかりの寺ですね。。

動画概要:
2018/04/04 に公開
[生]天平5(733).備前
[没]延暦18(799).2.21. 京都
奈良時代末期~平安時代初期の廷臣。父は乎麻呂。本姓は磐梨別公 (いわなしのわけのきみ) 。孝謙天皇の頃京に上り,武官として右兵衛少尉,従六位上の官位を得,天平神護1 (765) 年勲六等を受け,吉備藤野和気真人の姓を賜わった。これらは恵美押勝 (→藤原仲麻呂 ) 追討の功によるものと思われる。神護景雲3 (769) 年道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位につこうとしたとき,神託を聞くことを命じられた清麻呂は,道鏡が皇位を望むことは神霊もこれを震怒すとして道鏡の野心を退けた。そのため,道鏡の怒りを買って大隅に流された。宝亀1 (770) 年光仁天皇が即位すると,京に召し返されて和気朝臣の姓を賜わり,天応1 (781) 年従四位下となった。その後,民部大輔,摂津大夫などを経て延暦 15 (796) 年従三位となった。彼は吏務に精通し,『民部省例』 (20巻) を撰し,『和氏譜』を奏上した。また長岡京の造営が停滞していることを憂え,天皇に葛野 (かどの。平安京 ) への遷都を進言したり,摂津大夫のとき治水工事を行なったり,延暦初年,神護寺の前身である神願寺を河内に建立したりした。死後,彼の遺志によって,備前国の彼の私墾田 100町を,百姓賑給田 (しんごうでん) として農民の厚生の料にあてた。
Wikipedia:神護寺
弘法大師霊場 遺迹本山 高雄山神護寺ホームページ
ラベル:仏教 平安時代
posted by 蘇芳 at 21:07| 仏教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする