2018年11月28日

仏教嫌ひの系譜


こちらの後半で触れておいたように、新保祐司 「明治頌歌―言葉による交響曲 https://amzn.to/2xWi3y7」は、明治の精神の根底に「清潔」を見る。そこで引用されているのが伴林光平の漢詩である。
もと是れ神州清潔の民
誤って仏奴となり同塵を説く
如今仏を棄つ、仏咎むるを休めよ
もと是れ神州清潔の民
内容自体に文句はないのだけれど。
当ブログ的に注目したいのは、やはり、仏教に対する態度だろう。
「仏奴」となったことが「誤」りであり、ついに「仏を棄」てるに至っている。
当ブログではこれまでもしばしば、水戸光圀や頼山陽をはじめ、江戸時代の志士に影響を与えた思想家の「仏教嫌い」について言及してきたが、やはり伴林光平もそうであったのだろうか。
Wikipedia:伴林光平
伴林光平の場合、志士に影響を与えた思想家というより、それら思想家に影響を与えられた志士そのものであっただろうから、その仏教嫌悪も、なおさら、仮借や躊躇のない直線的な表現になっているようにも思える。

同様に仏門を脱して勤皇に身を投じた志士としては、佐久良東雄の仏教嫌悪なども、相当なものだったらしい。
良哉常に本居、平田の学風を欽慕し、僧籍に派入りしことを悔いて止まず。遂に意を決し、一日諸弟子を一室に会し告げて曰く「吾先師の遺訓を受けて以来皇室の事寝食の間と雖も、忘るる事能わず。因りて今日吾が宿志を果さむとす。諸子は各其道を行ひ、先師の遺訓に遵ひ皇恩の洪大なることを思ひ、苟も師の名を瀆すこと勿れ」とて、財産一切を分ち与へ、さて庭上に注連縄を引き廻らし、薪を積みて火を焼き、身に緋の衣を着け、読経数時畢て法衣と念珠とを火中に投じ赤裸となりて水を浴び、頭に注連縄を纏ひ、寺門を出でそのまま色川三中の家に到り、七日の断食を為し、仏寺に食ひし汚穢を祓ひ、潔斎して鹿島神社に参り、再び神池に沐浴し、社殿の下に伏して祝詞を奏せり。蓋し、先非を悔いて僧籍を脱し、専ら皇室に尽くさむとする由を採納したまへとなり。
Amazon:山田孝雄「櫻史
「仏寺に食ひ」たことが「汚穢」だの、先非を悔いて僧籍に入るのではなく脱する(つまるところ僧籍に入っていたことのほうが「先非」)だの、大した物言いだ。

こうした志士の仏教観の淵源は何だっただろう?
上の引用では「本居、平田の学風」となっているが、これはあくまで山田孝雄の論断であって、思想や歴史の専門でもない、昭和の国語学者の言うことであるし、「櫻史」という山田自身の、専門というわけですらない、あくまで趣味の著作の記述であるから、あまり真に受けすぎてよいものかどうなのか躊躇されるのだが……
例によってwiki情報で恐縮だが、良哉こと佐久良東雄は、
藤田東湖、会沢正志斎、加藤桜老(儒学者、笠間藩士)、大久保要(土浦藩士、戊午の密勅に参画)、色川三中(国学者、幕府の醤油御用商人)、藤森弘庵(儒学者)
など学識者と広く交流し、藤田東湖らには水戸藩への出仕を勧められたさえしたという。
「本居、平田の学風」だけに終始するなら、仏教だけでなく、それ以上に儒教の「からごゝろ」も嫌悪していてもよさそうなものだが、そうしなかった時点で、純粋に国学だけに終始していたとも思いにくい。
もちろん、こちらなどで見た通り、政治的には驚くほど穏健なのが本居学でもあってみれば、「本居、平田の学風」に終始するなら、かえって、そうした嫌悪や敵意を表に表す必要はなかったとも考えられはするかもしれないが……しかしするとやはり、仏教の「汚穢を祓ひ」などという、現代の目からは芝居がかってさえ見える、知行合一的な「行動」の性急さは何に由来するだろうか?

そもそも本居宣長は享保15年(1730年)~享和元年(1801年)の人。平田篤胤に至ってはさらにその「死後の門人」である。
徳川光圀、山鹿素行、山崎闇斎など、幕末のテロやクーデターを直接を準備したと言っても過言ではない過激思想のルーツが、こちらで見たように、三代将軍家光のころまでの、江戸初期に遡るのに対して、「本居、平田の学風」はずいぶん後発であるとも言えるだろう。
(水戸光圀の時代には、国学者としては契沖が一時水戸に招かれて万葉集の研究をしている。宣長の生まれる30年も前に亡くなった人である)
このあたりのタイムスケールは、教科書的に人名を羅列して覚えるだけではピンとこないかもしれないので注意が必要だと思うが……
本居宣長の最大の学問的業績が、自称保守派の言うように、「古事記」の再発見であり、宣長によって「解読」されるまでは古事記はろくに読むことさえできなかったのだというのが本当だとしたら……徳川光圀、山鹿素行、山崎闇斎など、幕末のテロやクーデターを直接を準備したと言っても過言ではない過激思想のルーツを築いた人たちも、基本的に、「古事記」は読んでいなかったことになるのではないだろうか。
つまるところ、彼らが研究したのは(やはりこちらで指摘したように)「日本書紀」であろうし、その研究の手法や態度は、国学というよりはむしろ儒教のそれではなかっただろうか。

徳富蘇峰の「近世日本国民史 徳川幕府 (思想篇) https://amzn.to/2SGZAz4」には、最近の保守覚醒本(?)の類では滅多にお目にかかれない、様々な興味深い引用文が、豊富に収録されている(正直、全体の半分とまでは言わないが、三分の一くらいは引用でできているのではないかという気がしないこともない💧)
孫引きになるので恐縮だが、同書によれば、江戸時代初期に書かれたという、尊皇愛国敬神のテキストの中にも、やはり仏教嫌悪の文言がかなりの程度混入している例があるようだ。
中世寖く微ふ。仏氏隙に乗じて、彼の西天の法を移し、吾が東域の俗を変ず。王道既に衰へ、神道漸く廃る。而も其の異端我を離れて立ち難きを以ての故に左道の説を設けて曰はく、「伊弉諾・伊弉冉は、梵語なり。日神は大日なり。大日の本国なるが故に、名づけて日本国といふと。或ひは其の本地は仏にして垂迹は神なり。大権は塵を同じくす、故に名づけて権現といふ。縁を結び物を利す、故に菩薩といふ」と。時の王公・大人、国の侯伯・刺史、信伏して悟らず、遂に神社・仏寺をして混雑して疑わず、巫祝沙門をして同住して居を共にせしむるに至る。嗚呼神在りて亡きが如し。神もし神たらば、其れ奈何ぞや。
庶幾はくは、世人の我が神を崇んで彼の仏を排せんことを。然らば則ち、国家は上古の淳直に復し、民俗は内外の清浄を致すこと、亦た可ならずや。
というのは林道春(羅山)。
蘇峰の筆にかかると、チャイナ崇拝の御用学者として、否定的に描かれる羅山だが、その羅山にしてなお、こうして廃仏を叫んでいる。チャイナの儒教とインドの仏教。いずれ外来思想同士のいがみあいという面もあるかもしれないことには注意が必要だが、その儒教が、神道の名を借りて、仏教排撃の論陣を張る(仏教排撃のために神道に寄生する?)という成り行きは、御用学者どころか後世幕府に弾圧された垂加神道のそれと大きく異なるものではないようにさえ見える。
また、やはり幕府に弾圧された熊沢蕃山も、
本より四海の師国たる天理の自然をば恥ぢて、西戎の仏法を用ひ、吾が国の神を拝せずして、異国の仏を拝す。我が主人を捨てて、人の主人を君とする事をば恥とせず、其のあやまちを知るべし。
と痛憤している。熊沢蕃山といえば(wiki情報で恐縮だが)「幕末、蕃山の思想は再び脚光を浴びるところとなり藤田東湖、山田方谷、吉田松陰などが傾倒し、倒幕の原動力となった。また、勝海舟は蕃山を評して「儒服を着た英雄」と述べている。 」そうで、やはり、志士に影響を与えた思想家といってよかろうが、立場を異にする羅山と蕃山が、その「仏教嫌い」においてはほぼ完膚なきまでに一致していることは、単なる偶然とも思いにくい。官学であると南学であるとを問わず、徳川初期の儒教の、それが全般的な傾向だったのではないか?

幕府の公式学問として朱子学を採用したのは家康ということになろうが。その孫の光圀はもちろん、息子の世代にも、尊皇・廃仏の傾向を示した者はいたらしい。蘇峰に言わせると、尾張義直は、「家康同様、儒教の保護者であり、かつ受用者であったが、彼は家康の仏教に対して、寛大なりしごとくならず、儒を進めて仏を排する傾向」があったといい、また、その「傾向」は単なる個人的資質であるというにとどまらず、むしろ「時代の精神」の影響としてみる方が適切であると説いている。「そは仏を排して儒を進めた者は、必ずしも義直一人に限らず、当時のいわゆる賢諸侯というべき者は、概してこのとおりであったからだ」
惟ふに夫れ本迹は浮屠の説なり。神書には未だ嘗て之を言はず。
「すなわち彼は神仏習合を排斥して、神儒契合を勧説した。」
光圀の水戸、義直の尾張。いわゆる御三家をしてこの状態。
そしてこれも家康の孫にあたる会津松平家初代保科正之の元では、やがて、山崎闇斎が吉川是足と出会って、垂加神道が誕生する。
それが「時代の精神」だったということだろうか。

「ネットde真実」な自称愛国者の皆さんには、あるいは残念なお知らせかもしれないが、本居宣長の「国学」による「古事記」の解読・再発見以前に、「儒教」と「日本書紀」によって、討幕攘夷の思想的根拠は、あらかた準備され終わっていた可能性があるのではないか?
そもそも、仏教受容以前の顕宗天皇の御代で主要な記述が事実上終了する「古事記」からは、直接的に反仏教の思想を抽出することは、かなり困難だろう。仏教受容以後の抗争に多大の紙幅を割き、崇仏派の蘇我氏を逆賊として討伐し、チャイナに仏教政治を導入した武則天の侵略に対抗した時代を描く「日本書紀」こそは、文字通り、尊皇愛国の「思想書」として読まれても不思議がない(※思想書としての「日本書紀」)し、それが儒教的であればこそ、テロやクーデターをさえよしとする幕末の過激思想にも結実しえたのかもしれない。

もちろん、時代の変革にとってはその過激性こそが必要であったとも言えるだろうし、一方で、その過激性ゆえに副作用も大きかったとも言えるかもしれない。功罪相半ばするのかもしれないが……そうであればこそ、そうした尊皇思想のあり方を、それこそ儒学者流にオールオアナッシングで裁断するのではなく、功罪それぞれをしっかりと弁別して評価すべきではないだろうか。(だからこそなおさらコジキコジキと一つ覚えしている場合ではない)

今回の記事の最初に新保祐司 「明治頌歌―言葉による交響曲」に触れたが……そういえば、そもそもそれを引用したこちらの記事は、〝アンチ儒教”な石平氏の著書をめぐるものだった。
こちらで見たように、志士というのも、その考え方は様々で、危機感が切迫し、行動が性急だった分、思想的には生煮えだった人物も、多々いなかったとはかぎらない。そうした群像から、後世の我々が「学ぶ」というとき、単なる情緒的崇拝に終始していてよいものではあるまい。
「仏教嫌い」の陰にかくれた儒教の功罪も、しっかり見極めなければならないのではないか。

また、事は江戸時代にだけ限ったものでもない。

「日本書紀」が尊皇愛国の書であることは、一読すればわかりやすい。
しかし、「日本書紀」そのものを読んでいるだけでは、仏教の害悪はよくわかるが、同じく外来思想であるはずの儒教の存在や影響は、わかりにくい。あるいは、それは「日本書紀」の記述自体が、儒教的な目を通して描かれており、儒教を対象化していないからではないだろうか? 自分の目で自分の目を見ることは、鏡がなければ、できないものだ。だとすれば、外来思想としては、見えにくい分だけ、儒教のほうがより厄介だとも言えなくはないかもしれない。
江戸時代の思想家たちの「日本書紀」の読み方は、そうした見えにくい儒教の存在とその影響を、あらためて、逆照射してくれる、「鏡」ともなりうるかもしれない……というのは、牽強付会が過ぎる期待だろうか?

Amazon:
近世日本国民史 徳川幕府 (思想篇) (講談社学術文庫 (590))
GHQ焚書図書開封11: 維新の源流としての水戸学
GHQが恐れた崎門学―明治維新を導いた國體思想
明治頌歌―言葉による交響曲
なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか 「脱中華」の日本思想史 (PHP新書)
櫻史 (講談社学術文庫)
posted by 蘇芳 at 16:10| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする