2018年11月22日

「うしはけ」と、草莽の志士が云う


こちらで井上毅が記紀の用語を駆使し、天皇統治の本質を「うしはく」ではなく「しらす」ものとして説明したことに触れた。戦後レジーム云々の流れで、自称保守の著名人がこの語を援用する機会もままあり、これらの概念はやや人口に膾炙してきたかにも見える。
しかし、「井上毅が」これらの用語であらためて天皇統治のあり方を定式化したということは、それ以前は、もう少し混沌としていたということでもあるかもしれない。そこは注意が必要だ。でなければ、上で言った類の「自称保守の著名人(※名が知られているだけで、言っていることが正しいとは限らない)」も、井上毅を称賛しながら、一方で、彼の考えとは相いれない天皇主権論者を崇拝するというような、間の抜けた羽目に陥らないともかぎらない。というか、わりとありがちな光景のような気もする。

真木和泉というと、一応、維新の「志士」、ある種の自称保守が好きな用語でいえば「草莽」の「志士」ということになるのだろう。wiki情報で恐縮だが、新渡戸稲造は『武士道』の中で彼の言葉を引用しているとも言う。
Wikipedia:真木保臣
しかし、同じwikiによれば、天皇の「御親征」という、危険な綱渡りを画策する人物でもあったようだ。

その真木和泉に「経緯愚説」の述作があり、その第一条に登場するのが、実に「うしはく」の一語であることは、偶然だろうか?
然ればこそ、昔の、御門は、蝦夷は云ふもさらなり、粛慎、渤海、三韓、琉球まで、皇化を敷き給ひ、中古までも、坂上田村丸は日本中史の石を奥州南部の辺地に建てたりといへり。勿論、我天津日嗣は宇内尽くうしはき給ふべき道理なり。露西亜王ペトルが妻は、婦人にてすら、ペトルが遺業を益々盛にして、我海内一帝たらんと志を立てたるよし。
日本の国柄とはまったく相いれない、専制君主以外の何物でもないロシア皇帝を見習えとばかりの文字通りの「愚説」は、まあ、時代の制約として看過するにしても。
「我天津日嗣」が宇内尽くを、(「しらす」のではなく)、「うしはく」ことこそが「道理」であるとは、井上毅の見識を称賛する自称保守の観点からは、まったくあきれ果てるしかない、妄説・愚論の極みである……はずではないだろうか。
(まさか著名な自称保守の先生方が、両者をごっちゃにするような自家撞着を犯していたりはしないものと思いたいところであるが)

直接に「うしはく」の語が登場するので、好例として真木和泉を挙げたが、こうした考え方は何も真木一人に限ったものでもあるまい。
上のwikiによれば、当初、長州藩は、真木の意見具申を「採用」したという。
その長州藩、吉田松陰門下の久坂玄瑞なども、
此より祖宗の制一変せり再変して権柄の武門に移るに至ては大八州国しろしめす天皇も正朔と爵位のみ出し玉ひぬることになりて供御の地も堤封限りあり小諸侯の如くにぞまします程の世の有様いともいとも嘆かはしき痛ましきことにありけれ
と、後の軍人勅諭を先取りしたような(天皇が「権柄」から遠ざかったことを悲憤慷慨する)歴史観を披歴している(慣用的に「しろしめす」と言ってはいるが)。
また、志士に大きな影響を与えたという、幕末のベストセラ―「日本外史」の著者、頼山陽もまた、当ブログで何度も引き合いに出している「日本政記」において、「権力者」「政治家」的な天皇像を念頭に置いていたように思えるし……
何より、南朝正統論を採る水戸学は、つまるところ、後醍醐天皇の「親政」を良しとする傾向を、必然的に、帯びることにもなるのではないか?

このように天皇を「権力」の主体として把握し、天皇に政治・軍事の「実権」を回復しようとする見方が、当時の尊皇思想の(すべてではないにしても)有力な一水脈であったとするならば、それはしっかりと弁別しておく必要がありそうだ。

何となれば……

こちらの動画で倉山満が語っていた「天皇親政を口にするやつの特徴」は、(当ブログでも三島由紀夫や二二六事件について何度も言及しているが)、維新の志士が神格化されていくなかでこそ、より深刻な惨禍をわが国にもたらすことになったのかもしれず、しかも、その錯誤の(反日勢力による否定ではない、保守層自身による)検証は(何しろ神格化されているために)なおまだ不十分であるようにも思えるからだ。

井上毅は天皇統治の「しらす」本質を明確にした。
福沢諭吉は「帝室論」において、
遙かに高き帝室より降臨すれば、乱賊も亦是れ等しく日本国内の臣子にして、天覆地戴の仁に軽重厚薄ある可らず。
右の如く、我が日本国に於いては、古来今に至るまで真実の乱臣賊子なし。今後千万年も是れある可らず。
と看破したうえで、
抑も政党なるものは、各自に主義を異にして、自由改進と云い、保守守旧と称して、互いに論鋒を争うと雖ども、結局政権の授受を争うて、己れ自から権柄を執らんとする者に過ぎず。其の争いに腕力兵器をこそ用いざれども、事実の情況は、源氏と平家と争い、関東と大阪と相争うが如くにして、左党右党相対し、左党に投票の多数を得て一朝に政権を掌握するは、関東の徳川氏が関原の一捷を以て政権を得たるものに異ならず。政党の争も随分劇しきものと知る可し。此の争論囂々の際に当りて、帝室が左を助くる歟、又は右を庇護する等の事もあらば、熱中煩悶の政党は、一方の得意なる程に一方の不平を増し、其の不平の極みは帝室を怨望する者あるに至る可し。其の趣は、無辜の子供等が家内に喧嘩する処へ、父母がその一方に左袒するに異ならず。誠に得策に非ざるなり。
世に皇学者流なるものありて、常に帝室を尊崇して其の主義を守り、終始一の如くにして畢生其の守る所を改めざるの節操は、我輩の深く感心する所なれども、又一方よりその弊を挙ぐれば、帝室を尊崇するの余りに社会の百事を挙げて之に帰し、政治の細事に至るまでも一処に之を執らんことを祈る其の有様は、孝子が父母を敬愛するの余りに、百般の家政を父母に任して細事に当らしめ、却りて家君の体面を失わしむるに異ならず。帝室は万機を統るものなり、万機に当るものに非ず。統ると当るとは大いに区別あり。之を推考すること緊要なり。
と論じた。見識というべきであろう。

まさに福沢が例に挙げた「関原の一捷」の前年に、東西いずれにも肩入れされることなく、「日本書紀」神代巻の刊行をお命じになることで、臣下に注意を喚起せしめられた後陽成天皇の実例は、当ブログでもこちらで言及しておいた。当時にそのような言葉がなかったことは百も承知だが、やはりその行為の本質は、あえて現代の言葉で「立憲君主的」と言い表したい気がする。
何となれば、朝廷に直接弓を引けば逆賊・朝敵だが、東西両軍の相克は、臣下同士のいわば「内輪」もめであって、陛下からすれば、東も西も臣下であるという点では一視同仁である。万人等しく仰ぐべき天皇が、あえて一方に肩入れして国内に深刻な分断を惹起することは、本当にギリギリの非常事態、よくよくのことでなければならない。――それはまさに福沢の論考そのままの状況であり叡慮ではないか?

もちろん、後陽成天皇だけではない。
それこそ「ギリギリの非常事態」に一時的に親政を志された天皇も少数はおわしましたかもしれないが、常態において、御歴代の天皇の多くがこの「立憲君主的」なあり方を守りつづけておいでになったのが、皇室の歴史の実態ではなかっただろうか。
文字通り「立憲」体制が確立された近現代においてはなおさらだ。
昭和天皇も、御父帝の御心を心とされる今上陛下も、この「立憲君主」としてのあり方を深く肝銘されていることは、心ある日本人なら、今さら言うまでもないことだろう。

にもかかわらず、美濃部達吉の天皇機関説がそれこそ「皇学者流」の詭弁を以て否定され、発禁の憂き目に遭い、耳触りのよい天皇主権説を以てその実天皇を傀儡化せんとする試みは、当時の青年たちを惑わし、国の進路を誤らせる元凶とさえなりはしなかったか。そして同種の企ては、その後、くりかえし世間を揺るがしつづけ、あまつされそれら不逞の輩を「烈士」「義士」ともてはやす風潮は、一部、今に至るまで存続してさえいるように思えなくもない。
天皇統治の本質は「しらす」それだと自慢しつつ、目の前の当今の天皇には、「うしはけ」と命令するというなら、それこそ不敬の極みだが……素朴な尊皇家こそ、かえってこの陥穽に気づきにくいのだとしたら、困った話ではないか。

昭和「維新」を叫んだ青年たちの誤謬と、明治「維新」の志士の過激な性急な勤皇論の孕む欠陥とは、彼らの無垢至純の「心情」とは別に、しっかりと究明され、批判もされなければならないのではないだろうか。
ネットの普及で戦後レジームが云々の風潮が加速しつつあるなら結構なことではあるが、ブレーキが伴わない加速はやはり危うい。明治150年というのなら、なおさら、単なるセレモニーや顕彰だけに終わらせるのは勿体ないというものだろう。

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posted by 蘇芳 at 15:02| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする