2018年11月12日

【動画】「国民が知らない 上皇の日本史 第3回 徳川幕府を蹴散らした後水尾天皇」おざきひとみ 倉山満


チャンネルくらら から。


動画概要:
2018/08/05 に公開
8月1日新発売!『国民が知らない 上皇の日本史』 (祥伝社新書)
倉山 満 : https://amzn.to/2PmhFEv

まさに最近のこちらこちらで言及した時代の天皇(上皇)陛下。

後水尾天皇については竹田恒泰「旧皇族が語る天皇の日本史 https://amzn.to/2PpoR2T」などにも詳しかったと思います。
明正天皇への譲位によって秀忠の野望を挫いた、という結論は、倉山氏も竹田氏も同じですが。
紫衣事件への「抗議」という意味に関しては、両者で意見が違っているようです?
(紫衣事件をはじめとする幕府のやり口に腹を据えかねたのでないのなら、なぜ、幕府の目論見を潰す必要があったのか? 個人的には、紫衣事件への「抗議」という意味が「サッパリわからない」という倉山氏の見解のほうが今ひとつよくわかりませんが)

こちらの末尾で言及しておいた後陽成天皇と後水尾天皇の不仲説についてもあいかわらずよくわからないのは残念ですが……
後水尾天皇と敵対したのがあくまで秀忠であって、家光ではない、というのは、(倉山氏のいうことですから、こちらの件からしても、信憑性については保留ですが)、事実であるとすれば、頭の隅に入れておきたい情報ではあるかもしれません??
そもそも朝廷に上皇/天皇がおわしますというのなら、幕府にも大御所/将軍がいるわけで。その関係がしっくりいっていたかどうか。朝幕関係、と一口に言ってみても、朝・幕そのそれぞれが一枚岩であるとはかぎらないわけでしょうからね。

そういう意味では、動画における和子中宮の位置づけも、(倉山氏のいうことですから、信憑性は以下略ですが)、興味深くはありました。

(少々余談にわたりますが「女性が実家に忠誠を尽くすかダンナに忠誠を尽くすかは本人次第」というのは、当ブログ的には、実家というか伯父の要求を突っぱねられた推古天皇を思いだしますな。「蘇我氏の女」や「馬子の姪」ではなく、「敏達天皇の皇后」や「天皇」というお立場を選択・優先された女帝だったかに思います。)

実際、後水尾天皇のwikiなどを見ると、和子中宮との間にも、明正天皇以外に多数の皇子女をもうけておいでのようで……つまるところ、しっかり御寵愛にはなっていたようではあります。
しかも、倉山氏の上の動画にも、竹田氏の前掲書にも言及がありませんが、後水尾天皇と和子中宮とのあいだに生まれた七人の御子様方のうち、二方は男子だそうで。これもwiki情報で恐縮ですが、兄の高仁親王については、「儲君」として扱われていたとのことですから、万一、この皇子が早世されず践祚されていれば、秀忠の満願成就という可能性もあったのかもしれません。
Wikipedia:高仁親王
将軍徳川秀忠の外孫にあたり、徳川将軍家の血を引く天皇としての即位が期待され、早くから儲君として位置づけられて寛永6年(1629年)を目途に後水尾天皇から譲位を受ける予定であったが、わずか3歳で病没した。
そういえば、前回の動画で、天皇諡号に「後」がつく理由について、「似ている」からだと、倉山氏が語っていましたが……
つまり、後水尾天皇の諡号の由来も、清和天皇に「似ている」ことだということになるわけで……こうして見てくると、その「似ている」点というのは、はたして、後水尾天皇が徳川の外戚化を「蹴散ら」されたことだったのだろうか?という気がしてこないこともありません。

後水尾天皇が、最終的、結果的に秀忠の野望を退けられたにしても、そこに至るまでの期間、ずっと一貫してそうであらせられたのか。そのまま秀忠の外孫を皇位につけることを良しとされたことが、一瞬たりともなかったといえるのか? 結論を急ぐ前に、その可能性も、一度くらいは、考えてみてもよいのかもしれません?
考えてみれば徳川が外戚化したところで、あくまで「外」戚ですから、それだけで皇室の男系男子継承の原則が狂うわけではありません。逆に、外戚化を阻めばそれで徳川の専横が抑えられるというわけでもないでしょう。天皇を傀儡にするためには天皇の権威をむしろ高める必要が出てきますから、むしろ徳川を親戚にしてやることでかえって朝廷に「取り込む」ことができるという考え方だってありえなくはないかもしれません。公武合体ですな。(増長した徳川がそれで満足するかどうかはまた別の問題ですが)

にもかかわらず……
高仁親王の誕生が寛永3年11月13日(1626年12月31日)、
紫衣事件は寛永4年(1627年)、
という年表を見ると、何が悲しうて幕府がこのタイミングで朝廷に喧嘩を売ったのか、徳川もずいぶん間抜けな気がしてきます。そこは野望達成の日までご機嫌を取っておけよというか何というか💧

さらにつけくわえると、上のwikiの続きには、
当時、中宮和子は懐妊していたが、江戸幕府は高仁親王の病没と前後して深刻化していた紫衣事件をきっかけとした後水尾天皇の退位を回避するために、同年9月27日(10月24日)に生まれた第三皇子を八条宮智仁親王の養子に出して皇位継承から外さざるを得なくなった(ただし、この皇子は10月6日(11月21日)に没している)[1]。こうした幕府側の動きにも関わらず、後水尾天皇は翌寛永6年11月8日(1629年12月22日)に第一皇女(明正天皇)への譲位を行うことになる。
などともあるようで。

幕府は朝廷をどうしたいのか。抑圧したいのか媚びたいのか。その意志の主体は秀忠か家光か。さらにいうならこちらこちらこちらなどからおぼろげに見えてきたように、家康・秀忠・家光の徳川初期には、やがて幕末に噴出することになる尊皇思想のルーツがほぼ出そろっていた気配もあり……幕府のやり口に、幕府内部から反対者が登場する可能性はなかったのか?

朝廷と幕府の「誰」と「誰」がどういう経緯で接近したのかはた反発したのか。そしてその関係性は一貫して変化しなかったのか。
短期的な朝幕の関係にも、そうそう講談調に威勢よく知ったかぶってばかりはいられない、紆余曲折があったのかもしれません?

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posted by 蘇芳 at 20:52| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする