2018年11月08日

慶長四年の立憲君主


こちらこちらで、後陽成天皇が勅諚を以て日本書紀神代巻を刊行せられたことに言及した。時に慶長四年。世に言う関ケ原合戦の前年である。
生前の秀吉の懇請も空しく、その没後、たちまち権力争奪の私闘を始めた諸大名に、国体の本義を思いだし、私利私欲に走らず、公の秩序の安寧のために尽くせ、と、お諭しあそばす大御心が、そこには込められていなかったか。
私見だが、これは、立憲君主の持つという「(臣下に)忠告を与える権利(※権限ではない)」の行使のように思える。

安土桃山時代に「立憲君主」などと言いだすと、場違いに思われる向きもあるかもしれないが。
しかし、近代憲法典だけが憲法というわけではあるまい。そもそも井上毅や伊藤博文が採用した歴史主義の憲法観からすれば、近代的な成文憲法典というものは、歴史の中から「発見」された慣習法をあらためて言語化したものにほかならない。「憲法」の本質は歴史の中にこそあり、「憲法典」はそれを表現する試みにすぎない。畢竟、憲法とは歴史である、とも言える。
それならば日本の「憲法」とは日本の歴史そのものであり、少なくともその中から発見されるべきものであろう。
とすれば、日本の歴史。その根本に位置し、建国の由来と国柄の根本を明らかにする正史「日本書紀」こそは、日本の憲法の根本文書であると言うべきではないか。推古天皇紀には文字通り十七条の「憲法」も収録されているのだからなおさらだ。
むろん、慶長四年に刊行されたのはあくまで神代巻だけだが、そこにも、天壌無窮の神勅は記されていよう。

日本の古典を考究し、帝国憲法、皇室典範、教育勅語などの起草に貢献した井上毅は、(https://amzn.to/2yWZ47Iからの孫引きで恐縮だが)、次のような一文を残しているという。
支那欧羅巴にては、一人の豪傑ありて起り、多くの土地を占領し、一の政府を立てゝ支配したる、征服の結果といふを以て国家の釈義となるべきも、御国の天日嗣の大御業の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめす、といふ意義より成立ちたるものなり。かゝれば、御国の国家成立の原理は、君民の約束にあらずして、一の君徳なり。国家の始は、君徳に基づくといふ一句は、日本国家学の巻頭第一に説くべき定論にこそあるなれ。
(『梧陰存稿』言霊)
この伝で言うならば、日本書紀の「巻頭第一」に神々の誕生から天孫降臨を経て初代神武天皇の生誕に帰結する神代巻こそは、「御国の天日嗣の大御業の源」「御国の国家成立の原理」を明らかにする「日本国家学」の「定論」そのものではないだろうか。
歴史が憲法であり、日本書紀がその成文化であるとするならば、その劈頭の緒言は、憲法の前文乃至第一条に相当する重要文献ということになる。たとえていうなら「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、日本書紀神代巻とはこれだと言っても、物の譬えとしてなら、あながち的外れではないかもしれない。
しかもこの「統治」が「しらす」の意味であることを古事記と宣長に依って明らかにしたのも井上毅である。
御国にては、古来、此の国土人民を支配することの思想を何と称へたるか。古事記に建御雷神を下したまひて大国主神に問はしめられし条に、汝之宇志波祁流葦原中国者我子之所知国言依賜とあり。うしはくといひ、しらすといふこの二つの詞ぞ、太古に、人主の国土人民に対する働きを名けたるものなりき。さて一は、「うしはく」といひ、他の一は「しらす」と称へたまひたるには、二つの間に差めなくてやはあるべき。大国主神には、汝がうしはけると宣ひ、御子のためには、しらすと宣ひたるは、此の二つの詞の間に雲泥水火の意味の違うことゝぞ覚ゆる。
(同上)

秀吉の死をよいことに権力闘争に陥った武将たちこそは、そのそれぞれが「多くの土地を占領し、一の政府を立てゝ支配したる、征服の結果」を追求する「豪傑」であり、その目指すところは国を「うしはく」ことにほかならないと断じても、大きく的を外してはいまい。武家とはそういうものだ。しかし、日本の国家統治の原理はそうであってはならない、と……後陽成天皇はそれをお示しになったのではなかったか。そんな解釈は、あまりに天皇を買い被りすぎた牽強付会だろうか? そうではあるまい、と、思いたい。

しかしながら、そのような立憲君主的な在り方は、裏を返せば、時局に対して、主体的・能動的・直接的な関与を断念することをも意味するだろう。立憲君主たろうとすることは、専制君主たるべき誘惑を放棄することに帰結する。
それを手ぬるい、歯がゆい、と、感じる向きもあるかもしれない。
実際、聚楽第行幸という一世一代の盛儀を秀吉と共にした後陽成天皇は、豊臣の滅亡を阻止することはおできにならなかった。その御姿勢は、周囲の目にどのように映ったであろうか。

慶長16年(1611年)、後陽成天皇は第三皇子の政仁親王(後水尾天皇)に譲位あそばすが……
後水尾天皇と後陽成天皇の御関係は、おそれながら、不和であらせられたと、伝えられているようだ。
その理由は、私ごときには今のところよくわからない。
豊臣びいきの後陽成上皇が、徳川の意向で擁立された後水尾天皇を遠ざけられたのだという説もあるようだ。
が、一方で、後水尾天皇こそは、数々の徳川の仕打ちに激怒あそばされた天皇でもあらせられる。
また、豊臣も徳川も関係のない、ごくごく私的な家庭内不和のようなものがあった可能性も、否定はできまい。

ただ、紫衣事件の経緯など拝見するに、後水尾天皇が時にはやや直情的とも思われるほど、血気盛んな天皇であらせられたことは確からしく思える。その天皇の御治世において、方広寺鐘銘事件の愚劣な言いがかりを以て豊臣宗家が滅ぼされ、禁中並公家諸法度が発布され、やはり驚天動地の言いがかりともいうべきおよつ御寮人事件が起こり、そのあげくの紫衣事件である。徳川の増長目に余る。そもそも関ケ原のそのときむざむざと家康に天下を盗ませていなければ……と、天皇がお思いになったかならなかったか、私ごときに拝察のしようもないが。。
武家の暴走に対して天皇はどのような姿勢で臨むべきか。老練な父上皇と血気の新帝とのあいだに意見の隔たりが生じても、不思議ではないような気はしないでもない。

唐突だが、ここで連想するのは昭和の御代だ。

立憲君主たるべく御自らを厳しく律しておいでになったという昭和天皇。
そのような帝の御姿勢を、弟宮方はしばしば煮え切らぬもののように歯がゆくお思いになっていたという話が伝わっているようだ。(当時、男性皇族は軍に所属すべき通例であったから、その方面の影響もあったのではないかとささやかれてもいるとか)
昭和天皇は昭和天皇で、そうした弟宮さま方を「困ったもの」だと思召しだったとかなかったとか……
天皇機関説を弾圧したあげく、天皇を傀儡化しようとしていることを自覚さえしない、烈士、国士、壮士の狂騒的な跋扈を招いた昭和時代の混乱を思うに、立憲君主というものは、素朴な尊皇家にとってこそ、かえって、相当に、理解しにくいものであるのかもしれない。

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右も左も誤解だらけの立憲主義
posted by 蘇芳 at 14:54| 戦国~織豊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする