2018年09月28日

【動画】「なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか~「脱中華」の日本思想史」石平 倉山満


面白くて一気に読んだ。それは大前提として。それでもやはりいくつか引っかかる部分はあった。「引っかかる」というのはつまり「刺激を受けた」ということでもあるので褒め言葉のつもりですが。
チャンネルくらら から。


動画概要:
2018/01/19 に公開
なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか 「脱中華」の日本思想史 (PHP新書)
石 平 : https://amzn.to/2DD5q17

大和朝廷が儒教より仏教を重んじた理由とは?
江戸の儒学者や国学者が見つけたものは何か?
文明の独立自尊を守り抜いた、日本人の「知の営み」の凄さ!

なぜ日本は、中韓から超絶した素晴らしい国になったのか。その秘密は、中華文明と果敢に対峙しつづけた日本思想史にあった。

著者の論旨は竹を割ったように明快でわかりやすのだが、あまりにわかりやすすぎてそこがまず引っかかる。
本書を読んでいると、あたかも2000年の時空を貫いて「日本」なる一つの統一的な人格が能動的主体的に脱中華という「目的」をかかげてテツガク「している」かのような印象を受ける。
しかし、思想やテツガクとは、そんなにも明確な目的を掲げて「する」ものだろうか。なし崩し的に「なる」ものでもあるのではないか。時には、なりなりてなり余ったり、なり足りなかったりもしてしまうものではないか。目的という、つまり最初から「到達点」が決まっているのなら、そもそも「考える」必要もない。
「人為」の「努力」を強調しすぎると、一方で「自然」の「趨勢」が見えにくくなる。それはそれで「日本的」ではない気もする。

まず、世界宗教である仏教によって、中華思想を相対化≒脱中華する。
さらに外来宗教である仏教に、従属するふりをして内側から変質させ、神の生き残り~神仏の同格化~神仏の地位の逆転をもたらす≒脱仏教する。
人民解放戦線さながらの見事な「戦略」を取った日本の勝利? 「日本」さんのインテリジェンスが凄すぎて困る。

それでも、まあ、そこまではまだいいが……

しかし、その直後に、「徳川」が儒教を大々的に導入する。
が、「日本」への影響は限定的だったと著者は言う。
やがて儒教の内部から朱子学批判があらわれ、それら批判者さえも根底的に批判する国学によって、本質的に儒教は葬り去られた、と、話は続く。

まず「引っかかる」のは、これでは「日本」と「徳川」が対立概念でもあるかのように見えてしまうこと。
徳川260年、世界的にもまれな長期間の平和的な文化国家を成し遂げた「徳川」もまた「日本」の叡智の一部ではないのか?
「脱中華」というテーゼにとらわれ過ぎるあまり、それに逆行する動きを、(それが日本人自身の動きであるにも関わらず)、あたかも「日本」の「敵」認定するというのなら、あまりにもありがちな陥穽というものではないだろうか。

しかもなお、そうして葬り去られたはずの儒教が、幕末に復活してくる。そしてそれは間違いなく明治維新の原動力の一つとなった。とすれば明治維新は儒教のからごころに「汚染」されているのだろうか?と、著者はあらたな疑問を提示して稿を終えている。
私自身、同種の疑問は何度も自問しつづけているので、問いかけ自体には大いに共感するが。
あらためて他人の目でこの疑問を見せてもらうと、そこにある種の思考の硬直もあることが、同時に見えてくるような気はする。

最初に著者の論旨は「竹を割ったように明快」と書いたが、結局のところ、そうした明快さは、全否定か全肯定か、オールオアナッシングの二者択一に陥りがちで、「部分否定」や「部分肯定」を考慮する余地を失いがちなのではないか。

著者が描きだす、賀茂真淵による、儒教批判は、非常に根底的であり根本的であり、徂徠の論旨の弱点をついて容赦がない。結果、徂徠学の「すべて」、儒教の「すべて」が何の価値もないゴミクズと化す(化したかに見える)。
しかし、思想とかテツガクとかいうものの価値は、100点か0点かという、(わずかでも儒教がかかわっていれば「汚染」だというような)明快な割りきりができるものだろうか。

著者自身が書いているが、宣長がもののあはれ論の根拠に置いた「源氏物語」は、道徳的・倫理的には救いようのないロクデナシの不倫の書であろう。光源氏など強姦常習者のうえに幼女誘拐犯でもある。しかも身分・権力をかさにきているのだからなおさらタチが悪い。そうした倫「理」の一切をわきにおいて、すべてを「情」の相においてのみ見る、情においてしか見ないのが、「やまとごころ」であるというのなら……一国の社会の指導的原理として十分であるはずもないことは、むしろ当然ではないか?
「美」や「情」の価値はいわずもがな、かといって「理」や「義」に価値がないというわけでもないだろう。
「美」や「情」を中心においたうえで、国学自身が有効な「理」や「義」を提示できるのならそれでもよいが……それが「苦手」なのが日本人だとしたら、借り物の儒教を「活用」する誘惑にかられても仕方無いだろう。
からごころを排除しつくしてやまとごころに「回帰」しさえすれば、万事解決。そんな単純な話ではない。

国学にかぎらず、遠い過去に理想の時代を設定し、そこへ帰れと主張する「復古主義」全般の、何が問題だといって……
そもそも、過去の一時代がそんなにも素晴らしく理想的だったというのなら、なぜそれは失われたのか?
過去の人間が現在の人間より愚かだったわけでもあるまい。むしろ理想の「古道」の実践者であったはずの古代人のほうが、よほど賢明だったはずではないのか。その賢明な古代人が自ら「古道」を捨てたというのは一つの背理である。自ら捨てたのではなく、何らかの外的要因で奪われたのだとするのなら、つまるところ「理想的」なはずの「古道」の敗北であって、つまり「古道」を守るためには「古道」だけでは十分ではなかったということではないのか?
それがなぜ失われたのか、どうすれば失わずにすむのか、そのためにはそれプラス何が必要なのか? それを問わずして単に過去に「回帰」せよというだけでは、同じ危機が訪れたとき、「古道」の喪失もまたくりかえされるだけではないだろうか?
極端な言い方をすれば、日本の過去に「古道」を発見する国学も、チャイナの過去にありもしない「聖人」の時代を設定する儒教も、復古主義という意味では、同じ構造を共有してはいないか?

国学が儒教を根本的に否定し去って無用の長物と化した。と思い上がった次の瞬間に儒教が復活してくることも、そう考えれば、それほど不思議な現象でもない。
そもそも、歴史を貫く一つの目的に向かって直線的に「進化」「進歩」しつづける一方通行の思想史など、それ自体、ファンタジーではないだろうか。

誤解を恐れずに言えば、著者の徹底した中華批判を聞いていると、逆説的だが、チャイナは真面目なんだな、という気がしてくる。白か黒かの二者択一に容赦がない。考えてみれば嘘吐きのチャイナは白を黒と黒を白と言いくるめることを平気でするが、裏を返せば、そこには灰色というものがないのかもしれない。
日本は、もっと、ずっと、いいかげんではないか。(いいかげん、というのを、「良い加減」と言ってもよいが)

私もかつて、律令国家の成立と明治維新の類似性を、「国防」「国民軍」の観点から考えてみたことがあるが、本書においても似た類推が行われており、共感した。
唐による侵略の危機は、唐自身の自滅によって、回避されたらしい。著者に言わせると、そうして危機が去ると、途端に、日本人は律令国家を無用の長物として捨て去ってしまったそうだ。もしそれが事実だとすれば、律令制はあくまで「有事」「非常時」のための体制であって、日本と日本人にとっては、本質的には「不自然」な「異常」な体制であり、時代だったことになる。
とすれば、それとアナロジカルな危機への対処として成立した明治国家もまた、本質的には「異常」で「不自然」な、からごころを「活用」した時代だったとしても、むしろ当然かもしれないし、そういう「異常」で「不自然」な「活用」を、必要があり短期間であれば、実現できてしまうのが、日本と日本人であるのかもしれない。
とすれば、近代の誤算は、西洋列強という新たな脅威が、唐のようには簡単に自滅しなかったこと、あげくのはてに、儒教など比較にならない共産主義なる「異意(ことごころ)」をさえもたらしたことだろうか。「異常」な「不自然」な努力の時代の永続に、先人は疲れ果て、息切れをしてはいなかったか。。

実は本書と前後して、新保祐司 「明治頌歌―言葉による交響曲 https://amzn.to/2xWi3y7」を読んだ。
明治という時代を「頌」する新保氏も、しかし、やはりその時代を「日本人離れ」した日本人たちが作り上げた時代であり、「日本的な、余りに日本的な」「温和」を愛する日本人が否定的にとらえたがるのも「当然」と認めている。
「理」や「情」に類する概念は、新保氏においては「義」と「美」のタームで表現されているように感じるが。「義」の希求が前面に押し出されたのが明治という時代であり、「美」の日本文化からすれば、それはむしろ例外なのだろう。
つまるところ、明治が「偉大」であるとすれば、その栄光も悲惨も、まさにその「非凡」さ≒普通でなさ≒「異常」さにこそ、あるのかもしれない。
しかしてその異常さを、明治の日本人は、鼻歌混じりに実現したわけでは決してない。
新保氏曰く、明治という時代の偉大さは、単に「強大」なものではなく、むしろ「うらわかきかなしき力」であったという。決して「楽天家」の時代などではないという。
明治維新は是か非か、オールオアナッシングの価値判断を急ぐのではなく、この「うらわかきかなしさ」に、「もののあはれ」を感じるのなら、近代日本は、からごころに「汚染」されつつもなお「やまとごころ」を失い尽くしてはいないといえるのかもしれない。
そういえば、そうしたかなしい明治の精神の根底に、新保氏が見出すものは、なお、「清潔さ」でもあった。それは石平氏が日本的価値として取りだす「正直」「清浄」と一脈相通じるものでもなかっただろうか。


どうにもケチばかりつけているようで恐縮だが。
むしろ大いに説得力のある必読の書。ただ、そこで止まらずさらなる思考を誘われるということ。それはむしろ「名著」というものの条件だろう。
ついでに言えば、本書に登場する思想家たちの著書もまた片端から読んでみたくなるような、思想史の冒険への手引きの書でもあるかもしれない。

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posted by 蘇芳 at 16:58| 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする