2018年09月26日

ルサンチマン


誤解・曲解されがちですが「政教」の分離というのは本来あくまで「政権」と「教会」の分離を言うにすぎず、「祭政」そのものの一致が完全に否定されているわけではありません。外国の王の戴冠は聖職者によって行われるのが当然ですし、一見世俗的な米大統領の宣誓も聖書によって行われます。万一、無理にも政治が宗教を完全に否定し去ろうとすれば、政治それ自体が宗教的機能を代行せざるをえず、つまるところ政治そのものが世俗に偽装したカルトと化さざるをえないでしょう。共産主義という最悪の神権政治はその実例です。
したがって宗教史・思想史を欠いた政治史というものは本来ありえず、政治史を欠いた「純粋」な思弁の歴史などというものも幻想でしょう。宗教・思想の歴史こそ俗塵にまみれた執着の極みであり、だからこそ宗教・思想が必要とされるとも言えるのかもしれません。

******************

宗教から「解脱」できるほど人間はデキた生きものではない。
神など不要と思い上がった瞬間に足元をすくわれる。
たとえ表面的な「制度」が政教分離だの世俗主義だのを標榜していたとしても、もっと深いレベルでは祭政は常に本質的に一致している。
政治が混乱すれば、宗教界も動揺する。政治的抗争の歴史とは宗教的相克の歴史以外のなにものでもない。

元々、「日本」という「国」はなかった。
あったのは、縄文や弥生の「集落」であり、せいぜいが、宇佐や出雲や吉備や狭穂やその他その他といった「クニ」であり、それぞれがそれぞれのカミを独自に祀っていただろう。
それら「クニグニ」の「カミガミ」を緩やかではあっても一つの体系に取りこんでいったのが、つまり、皇室であり、そこではじめて「日本」「神道」の原型が成立した。それ以前にはさまざまなクニの信仰は存在しただろうが、「日本神道」はまだ決して存在などしていなかった。なぜならそもそも「日本」という「国」がまだ存在していなかったのだから。
日本の「建国」という政治的一大事件と、日本神道の成立という宗教的事件は、当然に、パラレルである。

その事業は神武一代で完成したわけではなく、何代にもわたる長期の「過程」を必要としたことは間違いないが、「長さ」というのはどこまでも量的な問題であって、質的な問題ではない。建国の大詔の渙発され、国民国家の理念が提唱されたという政治的・思想的大事件に比すれば、その後の紆余曲折は、表面的な事件の羅列にすぎない。
こちらなどで見たように、崇神期に大和の地祇が帰服し、垂仁期に伊勢神宮が創建され、景行期に九州や東国が平定されたが、そのような何代にもわたる事業の継承が可能だったのは、その事業内容自体に大きな本質的変化はなかったからとも言えよう。
説得・利益誘導による勧誘や、その証としての縁組が優先され、大和朝廷の持つリソースによって現世的な繁栄が約束される一方で、ヒメヒコ制をはじめとする「クニ」の祭政は否定され、日本国の「地方」へと吸収される。それを良しとしない勢力が反旗を翻したときには、今度こそ武力討伐が行われる。言ってしまえばそのくりかえしである。

しかし、成務天皇の御代に国内の統一事業が一通り完成すると、それ以降、仲哀・(神功)・応神の御代に海外への雄飛が始まり、政治的事業が質的な変化を迎える。それは当然、外来思想の流入という思想的事件も伴ってくるだろう。(仁徳天皇紀に風変わりな説話的挿話が多いことはこちらなどでも指摘した)。
このとき以降、関係を本格化させ(てしまっ)た半島や大陸が、わが国にとって、政治的・軍事的・宗教的混乱の縁源となっていくことは、今さら言うまでもないだろう。

仏教公伝という思想史上の一大事件も、その背景にあったのは半島の動乱であり、わが国にも蘇我・物部の動乱をもたらし、蘇我の跳梁からついにはそれを排除する大化の改新へと連なっていくという意味で、政治的一大事件と骨がらみになっている。どこまでが政治の問題でどこからが信仰の問題だなどと区別しようとしても無駄だろう。
さらに、半島の動乱と、国内の政治抗争は、やがて白村江の敗戦をもたらし、唐による侵略の危機をも迎えることになるが、このときの唐の皇帝・武則天が熱心な仏教徒だったことも明記しておいてよい。
天武・持統朝はこちらでも指摘しておいた通り、正史に神道祭祀の記述が飛躍的に増える時代。持統天皇の御代といえば、売身愛国の時代であると同時に、最初の式年遷宮が実施された時代でもある。
(もちろん、日本書紀の記述に関しては、壬申の乱の勝者としてのバイアスは警戒しなければならないかもしれないし、舎人親王の思想も反映されているかもしれない。日本書紀を素直に読めば、抗争していたのは神道vs仏教という、わかりやすい構図であり、これが江戸期の尊皇家に好都合な枠組みを提供したらしくもあるが……この構図の中に儒教・儒学がどのように位置づけられるのか、ハッキリしないことには警戒を要するだろう。自身儒学者でもあった江戸の尊皇家にとっては、意識的・無意識的に隠蔽されていた問題かもしれないが、聖徳太子によって制度的にもすでに受容されていた儒教が、唐の侵略に対抗するために唐の技術を学んだ天武・持統朝において何の意味も持たなかったとは考えにくい。そも「売身愛国」自体が儒教的プロパガンダと見えなくもない。だとしたら、それははたして「やまとごころ」か?)

仏教の問題はその後も長く尾を引く。
平時には目立たないが、政治が混乱すれば、必ずと言っていいほど浮上してくるのが、仏教の存在であるとも言える。
奈良時代の玄昉・道教は言うに及ぶまい。聖武・孝謙・称徳天皇の仏教政策は、血で血を洗う内訌をもたらし、結果的に天武系皇胤の断絶さえもたらした。
ここに「一枚噛ん」だ八幡宮の存在も、それ自体、複雑な習合形態を含めて、注目すべき現象だろう。
その奈良時代の抗争は、政治的には桓武天皇の登極と遷都によって、宗教的には比叡山の新仏教の育成や、和気の宇佐使いなど八幡宮改革によって、一応の決着を見る。さらには大陸・半島との断絶と国風文化の隆昌によって、国内に長期の安定がもたらされたことは、何よりでもあったが……長期の安定は内政的には停滞と堕落と腐敗を伴わざるをえないのも人の世の常であり、政治と宗教が本質的に一つのものだとすれば、叡山の堕落こそ深刻だったことも必然というべきか。

律令国家の解体~源平合戦~鎌倉幕府の成立は、民族の叙事詩でもあるが、そこには常に「祇園精舎の鐘の声」が付きまとう。
その動乱は、政治的には京都に対する鎌倉を生み、宗教的には叡山に対する新仏教の数々を生んだ。
また、律令国家の経済的破綻は、朝廷の宗廟たる伊勢神宮を中心とする神道界・神社界にも経済的環境の激変をもたらしただろう。
伊勢神宮がお高くとまって「私幣禁断」などと言っておれなくなっていくのも、これ以降。伊勢の観光ガイドが自賛する「御師」の活動が活発化する、というより活発化せざるを得なかったのも、要は神宮の懐事情によると、言ってしまっては身も蓋もなさすぎるだろうか?
何にせよ、朝廷からのあてがい扶持がアテにならぬなら、有力な武家や、はては一般庶民から、広くお布施を集めなければならないし、それには相応の見返りも必要。要するに縁起や御利益の類を積極的に宣伝する必要ができてくる。
新仏教の隆昌とともに、神道界・神社界の側からも、それら仏教理論に便乗した、神仏習合論が盛んに唱えられたのが、鎌倉時代でもあったらしい。

鎌倉時代最大の国難が元寇であることは言うまでもあるまいが。
とすれば、宗教界への余波というものも、今ではあまり語られないかもしれないが、当然、相当に大きなものがあったはずではないだろうか。
元寇とそれに伴う国内のゴタゴタを自宗の宣伝に最大限利用したともいえる日蓮宗などは、石原莞爾、相沢三郎、北一輝など昭和の「問題児」にまでつながるほどの「影響」を及ぼしたというと言いすぎだろうか?
まあ、そこまでは言わないにしても……
神道側でも大きな動きはあった。
元寇の当時、伊勢神宮・熊野三山への御親拝で存在感をお示しになった亀山上皇は、同時に、大覚寺統の祖でもあられ、いわゆる両統迭立の遠因、もっというなら鎌倉幕府崩壊の遠因をおつくりになったとも言えなくはないかもしれない。
Wikipedia:亀山天皇
しかして、まさにその両統迭立からの鎌倉幕府崩壊を経て、南北朝期に確立された神道思想が、(これまでにも何度も批判を重ねてきた)渡会神道だったようにも思う。
従前の神道思想が仏教からの借り物の習合論にすぎなかったのに対して、初めて、神道独自の理論化に成功したと、一般には高く評価されているらしいが……これが仏教よりもむしろ内宮に対する外宮のルサンチマンに凝り固まった、ある種のカルトではないかという疑惑は、こちらなどでくりかえし考察してきたとおり。
しかも、渡会家は、神皇正統記に見るごとく、南朝との関係を深めていったがゆえに、政治的には負け組のルサンチマンをさらにさらに増幅していった可能性さえ、考慮すべきかもしれない。
すでに形骸化していた斎宮制度が、再興の試みも空しく、最終的な終焉を迎えたのが、他でもない、後醍醐天皇の御代だったことも併せ考えれば、元寇以降の両統迭立から南北朝の対立がもたらした宗教界への余波は、まことに大きかったというべきではないだろうか。

南北朝の動乱は、室町幕府を生んだが、この幕府が奉じた北朝が、現実的・政治的には勝者となる。朝廷内の対立自体は、南朝が北朝に吸収される形で解消されたが、両朝をとりまいていた勢力は、それで収まるわけでもない。表面的にはさておき、潜在的には、ルサンチマンを抱え続けたかもしれない。(南朝方の怨念は近代の「熊沢天皇」にまで伏在しつづける、というと、さすがにネタ的な物言いになりすぎるだろうか)
室町幕府の屋台骨がガタつき始める応仁のころ、日野富子らをパトロンに台頭してくるのが、京都吉田山の吉田神社を拠点とする吉田神道。神道が根源、儒教が枝葉、仏教が果実、と、それまでの神仏習合論を大胆に転倒し、仏に対する神の優位性を主張した吉田神道こそ、真に革命的な神道思想だったことは間違いなさそうだが、同時に、京の都という地の利を生かし、朝廷はもちろん、足利・織田・明智・豊臣、そして徳川、と、次々に天下人と誼を通じ、現世的な勢威を確立していく、生臭い勢力でもあったことは否定できまい。
根葉果実説・吉田神道・儒家神道
【動画】吉田神社
黄門様と神道
そして、北朝を奉じる幕府と結託して勝ち組となった吉田神道は、南朝と通じる「負け組」渡会神道にとっては、不倶戴天の敵でもあろう。江戸時代を通じて、吉田家が出自を偽っている、と、ネチネチと執念深く古記録を調べまくって告発した陰険な集団が、他でもない、伊勢神宮だった。南北朝の対立自体が解消しても、そこで形成された取り巻きたちの対立は、なかなか、無かったことにはならないのかもしれない。

幕府と癒着した吉田神道の天下は、幕府が存続するうちは揺るぎないものだった。
しかし、当然、敵も多い。
幕府の天下が盤石であるうちは目立たないが、少しでも社会のタガが緩んでくれば、負け組のルサンチマンは一気に噴出する機会を与えられるだろう。
伊勢神宮はもちろん、吉田神道自体にもお家騒動がある(吉川惟足)。吉田利権にあぶれた神社はやがて白川家に結集もした。
吉田神道は神仏儒習合だが、江戸時代の思想家は大方が儒学者。これがやたらと仏教を敵視した。水戸光圀しかり、頼山陽しかり、山口闇斎などもその口か。
我が邦は君臣の義、万国に度越す。而るに西竺の説、これを壊り、これを土灰沙塵に帰して止む。而してその端を開く者は、厩戸・馬子なり。
頼山陽「日本政記
先述の通り、日本書紀を素直に読めば、目立つのは神道vs仏教の対立であって、儒教は鳴りを潜めているからなおさら。いわゆる尊皇家であればあるほど仏教を排撃する。その仏教を習合させる吉田神道は不徹底だとやり玉に上がることにもなる。やがて討幕の機運が起これば、仏教擁護でかつ幕府の犬の吉田神道こそ敵だと言いだす輩が出てこないとも限らない。こうなると吉田が憎いのか仏教が憎いのか幕府が憎いのかもわからなくなる。

これら「憎しみ」がいわゆる尊皇攘夷の原動力の(すべてとは言わないが)一つだったことは、残念ながら、否定しえない事実ではないだろうか。
世俗的には「外様」の「下級」の武士や、佐幕派だが新撰組などは元来農民だったり、と、あえてサヨク用語を使うなら、「体制」から「疎外」された「階級」こそが、「草莽」という存在ではなかったか。
思想的にも、そこに、反吉田・反仏教、あげく反北朝(水戸学は南朝正統論)など、いわば「体制側」に対する「負け組」のルサンチマンが強く作用していることは否定しようもないように思う。
それら雑多な過激派勢力が、幕府憎し吉田憎しの情念で野合し、暴力的に成し遂げた、というのも、すべてではないにしても明治維新の一面かもしれない。
しかして、「体制」を倒すだけで手一杯で、その後の(夢物語ではない現実的な)展望を欠いているのも、ありがちなカクメイのパターンだろう。いつの世も夢想家はリアリストに利用されるだけされて最後の果実をさらわれるのが常ではないか。

「維新」が「革命」だったとまでは言いたくないが、志士という名の過激派にとって、真の試練がむしろ維新の「後」に訪れたことは、他国の革命の運命と相似形であるようには思う。
そもそも、単に共通の敵の前に一時的に共闘していただけの、同床異夢の雑多な集団のすべてを満足させる「御一新」など、土台、あるわけがない。中世以来の負け組のルサンチマンは、明治維新を成し遂げた瞬間に、今度は明治時代の負け組として、さらなるルサンチマンをこじらせる、そんな結果にならざるをえないのではないか?
世俗的には、萩・秋月の乱や西南戦争に代表される、いわゆる不平士族の問題があるし、自由民権運動や社会主義運動などもその延長線上にあるようなものかもしれない。

明治政府の宗教政策はさらに皮肉だろう。

神武創業を理念に掲げた明治政府、当初は全神社の国営化なども唱えたが、先立つものがありはしない。結局、国家予算を充当するのは皇室の宗廟だけということになったが、皇室の祖神として重要なのはあくまで内宮。外宮のほうが宇宙の根源神で、内宮ごときよりはるかにエライのだ、などという渡会神道は、明治政府にとって、果たして、迷惑な存在ではなかったか?
詳しいことは知らないが、明治時代以降、神主の世襲制は、制度としては終焉したという。が、渡会神道を唱えた渡会氏は、それこそ外宮の世襲神主だった。世襲神主制の廃止が、渡会神道にとって喜ばしい政策だったわけもあるまい。たしかに、幕府の崩壊とともに、憎っくき吉田神道は没落したが、それで渡会が得をしたわけでもない。何とも大山鳴動してナントヤラな結果である。
渡会だけではない。明治政府の宗教政策・廃仏毀釈・国家神道というと、神道が得をして仏教が損をしたかに早とちりしそうになるが、国家神道を作り上げるためにむしろ厳しく統制しなければならないのは神道のほうだろう。一村一社制の施行などでかえって迷惑を蒙った神社も多かったとか、かえって仏教のほうが上手く立ち回ったとか、はなはだしきは、国家神道の内実は国家仏教であったとまで言う向きまでないではないようだ(Amaozn:甦れ日出づる国

島崎藤村の「夜明け前」の主人公は、維新に裏切られた国学者だが。こうしてつらつら考えてみると、裏切られたのは何も国学者だけにかぎるまい。逆賊の汚名を着せられた会津や桑名はもちろん、それ以上に深刻なのは、薩摩や長州の不平士族。いったんは維新の原動力になった、その後の転落であればこそ、かえって「背信」への痛憤は切実だろう。官軍の名で攻め寄せてくる敵が、同じ薩長の兵だというならなおさら。
それでも、世俗の切ったはったは、現実の戦場でケリをつけることもできなくはないだけ、まだマシかもしれない。
信仰や思想など、抽象的な観念をめぐるルサンチマンこそ、際限もなく増幅され、社会に沈潜し、悪意の伏流水となって、いつまでも人心を蝕みつづける危険がありはしないか。

近代以降、現代にまでつながる、神道系・愛国系カルトには、この中世以来のルサンチマンの水脈が今も滔々と流れているようなうすら寒さを感じなくもない。https://youtu.be/etfPiaiAESY ←これはあくまで一例だが、「足軽幕府」「首チョンパ」、下品な神道もあるものだ。

明治維新は、間違いなく、西洋列強から日本の独立を守り抜いた。
そこから目を背けることはあってはならない。
同時に、政治と宗教が本質的に不可分であると信じるかぎり、明治維新の思想的・宗教的文脈をいかに読み解くか、考え続けないわけにもいかない。何となれば、そこには神道と、仏教と、儒教と、国学と、さらには西洋の一神教(さらにその鬼子たる革命思想)と、整理して把握するにはあまりに巨大で雑多な水脈が、あまりに複雑にからみあっているが……その絡み合いの呪縛から、現代のわれわれもまた、今なお、自由ではないのかもしれないのだから。

Amazon:
わかりやすい神道の歴史
吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ)
神道の逆襲 (講談社現代新書)
甦れ日出づる国
からごころ - 日本精神の逆説 (中公文庫)
儒教 怨念と復讐の宗教 (講談社学術文庫)


追記:
日本書紀を素直に読めば神道vs仏教の構図が見えることは間違いない。同時に見えないのは儒教の立ち位置。最近、これが気になる。
本文中にも書いたように、江戸時代にも自身外来思想の徒にすぎない儒学者が、やはり外来思想の仏教を口汚く罵りまくっていたわけだが……彼ら外来思想の過激性が古代から本質的に変わっていないとすれば、書紀に現れている神道vs仏教の構図の陰に隠れて、儒教が暗躍していた可能性もないではないかもしれない気はする。
唐の侵略に対抗するために、律令制など唐の文物を学んだ、和魂漢才の時代。その文物に儒教が含まれなかったわけでもあるまい。武則天が仏教マニアであればあるほど、毒を以て毒を制す式に、対抗馬としての儒教の使い道はあったかもしれない。
「続日本紀」の時代にも、仏教派の聖武・孝謙・称徳天皇に対して、日本書紀編者・舎人親王の皇子である淳仁天皇や、その後見人藤原仲麻呂は(中臣≒神主でもあるから)神道派のように見えなくもないが……中麻呂が相当な中華マニアでもあったことを思えば、儒教の影響こそが強かった可能性も出てくるように思う。となれば、廃仏よりも廃儒こそが必要だった(≒仲麻呂を討伐したことこそ正しかった)、という見方もありえなくもないのだろうか?
ラベル:神道 国学 儒教 仏教
posted by 蘇芳 at 20:46| 神道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする