2018年09月20日

【動画】【古事記 中巻】原文朗読 第11代 垂仁天皇②沙本毘古と沙本毘売


古代日本にはヒメヒコ制と呼ばれる男女のペアによる統治形態が存在したと言われていますが、
Wikipedia:ヒメヒコ制
ならば大和朝廷の成立は、これら旧来の制度の解体と表裏だったはずでもあるでしょう。
記紀に収録された狭穂姫・狭穂彦の物語は、(一見、他の謀反の数々と大差ないものに思えたり、下世話な目には近親相姦やいわゆる「妹萌え」の物語のようにさえ見えてしまうかもしれませんが)、そうした解体過程を背景とした、ヒメヒコ制終焉の挽歌として読むこともできるのではないでしょうか。


動画概要:
2016/04/28 に公開
【あらすじ】第11代 垂仁天皇②沙本毘古と沙本毘売◆垂仁天皇は皇后の沙本毘売をとても愛していました。ある日、沙本毘売は実の兄の沙本毘古に呼び出され、「お前は兄の私と夫の垂仁天皇と、どちらが愛しいか」と尋ねられ、兄の手前、「兄上のほうが愛おしい」と答えてしまいます。すると兄は、天下を我がものにするため、妹に短刀を手渡し、「私を愛しいと思うならこの短刀で天皇を暗殺しろ!」と命じます。恐ろしい陰謀があるのも知らず、后を心から愛している天皇は、后の膝枕で深い眠りにつきます。后は短刀を振りかざしますが、夫の不憫さに耐えきれず、涙があふれ出てしまいます。目覚めた夫は、「夢で雨水が我が顔を濡らし、錦蛇が首に巻き着いた。これは、一体どうしたことだ?」と言われると、良心の呵責に耐えかねた后は、暗殺しようとしたことを夫に打ち明けて、兄のもとに走り去ります。事実を知った天皇は、反逆者・沙本毘古討伐の軍を差し向けます。迎え撃つ沙本毘古も屋敷を強固な砦にして応戦。さて、沙本毘売は妊娠していました。やがて、元気な皇子が生まれます。この状況下でも后を愛おしく思う天皇は、機敏な兵士を差し向け、皇子と后を同時に奪還を試みますが、后は、長い髪を剃ってかつらにし、腕輪の糸は切れ易くし、身にまとう衣服も酒で腐らせ、破け易くしたので、奪還に差し向けられた兵は、后を奪還することができず、皇子のみを天皇のもとに連れ帰りました。天皇が反逆者の砦に居る后に向かって大声で尋ねます:「この皇子の名は母親がつけるものだ!どう名付けたらよいのか?」。后は「炎の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子です。」と返答します。更に天皇は「愛しいお前がいなくなったら、誰が私の身の周りの世話をしてくれるのだ?」と尋ねると、后は「旦波の兄比売と弟比売という心清らかな姉妹がいます。この二人をお召しになって下さい。」との返事。やがて炎に包まれた砦の中で、反逆者である義兄の沙本毘古は殺され、后の沙本毘売も兄に殉じて自殺してしまいます。◆…肉親同士の争い、とても残酷なストーリーですが、同時にとても深みのある人間味あふれた劇的なドラマ…とても感動しました!!
Wikipedia:狭穂姫命

人名表記をはじめ、記と紀では細部に異同があるので面倒ですが、とりあえず動画は古事記バージョン。
中村敏雄 から。

これを読んで「人間味あふれた劇的なドラマ」と感動するのもよいですが……
沙本毘古と沙本毘売(狭穂彦・狭穂姫)というのですから、この二人もまたヒメとヒコ。それも(神武東征時代の宇沙都比古・宇沙都比売などと同様に)、佐保(狭穂)という地名を冠していることから、その地方を統治していた豪族の出自であることが推測できるように思えます。
日本神話・神社まとめ:沙本
つまるところ沙本毘古と沙本毘売(狭穂彦・狭穂姫)は、本来、二人三脚で佐保(狭穂)の「クニ」を治める首長たるべき存在だった、のではないでしょうか。
ところが、その片割れのヒメが、天皇に入内された。
それ自体、佐保(狭穂)の「クニ」の朝廷への帰属の証ともいえるでしょうし、佐保(狭穂)にとってメリットもあったはずではありましょう。上で触れた宇佐地方の場合も、一書によれば、宇沙都比売が天種子命(藤原氏の祖神)と結婚したという伝承があるようですが(※【動画】宇佐市を日本書紀でたどる 神武天皇と一柱騰宮)、臣下ではなく他でもない天皇本人との結婚ともなれば、沙穂のほうが宇佐より「格上」ということにもなるかもしれません。
しかし、ヒメを失って、ヒコ一人が残されては、ヒメヒコ制は機能しません。沙穂の「クニ」の従来の政体・統治形態はあえなく終焉し、朝廷に帰属する「地方」として生きていくしかなくなるとも言えます。それで満足しておけばよさそうなものですが、そうもいかない「旧体制派」というべき勢力もいたのでしょう。それもまた自然なことのようには思えます。

要するに佐保彦の乱とは、旧体制と新体制の必然的な衝突という性格を併せ持つものであり、そして旧体制の最終的な敗北が同時に新体制確立の画期でもありうるがゆえに、単に感動的な「お話」というにとどまらない史的意味を持つものでもあるのではないでしょうか。

記紀を素直に読むならば、崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇のいわゆる纏向三代に「日本国」の統一は一通りの完成を見たことになります。
その統一が、祭政の両面から進んだであろうことは、今さら言うまでもないでしょう。
崇神天皇の治績は大神神社・大和神社・笠縫邑の祭祀と不可分であり、笠縫邑の祭祀は垂仁天皇の御代に伊勢神宮の創建に結実し、景行天皇の御代には日本武尊の東征に伴って熱田神宮が創建されもしています。
注目すべきは、これら数々の祭祀に見られる、女性=「ヒメ」の活躍です。
笠縫邑~伊勢神宮の豊鋤入姫命や倭姫命、熱田神宮の宮簀媛命はもちろん、大神神社も大和神社も(大田田根子が見出されるまでは)倭迹迹日百襲媛命、渟名城入姫命など、その祭祀の担い手はやはり「ヒメ」でした。

中央、大和政権の側だけではありません。
この時代、沙穂にかぎらず、各地にヒコヒメが存在したらしい気配が、書紀を読むと伝わってきます。

垂仁天皇のすぐ次の景行天皇の御代にも、多数のヒメが登場します。
日本武尊の物語における弟橘姫や宮簀媛命はもちろん、天皇ご自身の征西においても、九州地方の女性首長(ヒメ)が複数登場していること、こちらで確認しておいたとおりです。
ここで、三種の神器と同種の宗教的なシンボルとともに登場した彼女たちは、朝廷に服属すると同時に、口をそろえて「土蜘蛛」の討伐を天皇に願い出ています。
この土蜘蛛というのは、単なる単純素朴な「敵」だったでしょうか?
古代日本にヒメヒコ制が広く存在していたとして、天皇に服属したのがあくまで「ヒメ」に率いられた集団だったとすれば……片割れの「ヒコ」はどこにいたのか? おとなしくヒメに従っていた可能性ももちろんあるでしょうが、中には沙穂彦のように朝廷に抗おうとした「ヒコ」もいたのではないか?と考えることもあながち無理ではないように思います。とすれば、ここで言う「土蜘蛛」こそは、朝廷への帰属を良しとしない旧体制派≒「ヒコ」の別名に他ならないのではないか、と、想像することも、不可能ではないように、私などには思えるのです。

要するに、ここで景行天皇に服属した女性首長たちは、たとえて言うなら、沙穂姫とは逆に、天皇とヒコといずれが愛しいかと問われ、天皇こそ愛しいと答えたヒメたちだったのではないでしょうか。
実際、その後、熊襲においては、天皇に偽りの寵愛を受けた娘が父を裏切るという、近親男女(ヒメヒコ)関係の破綻がさらに露骨に描かれています。まさしく、ヒコよりも天皇こそ愛しい、と、行動で示したヒメたちでした。

兄に殉じた沙穂姫と、天皇に「土蜘蛛」の討伐を願った神夏磯媛や速津媛、まして父を裏切った市乾鹿文と市鹿文では、ベクトルは真逆のようでもありますが……
個々人の身の処し方とは別の次元で、日本各地に霊力を持つ「ヒメ」が活躍した時代があったことは、確からしく思えますし、また個々人の身の処し方とは別の次元で、彼女たちの時代が終わりつつあったことも確からしく思えます。

沙穂彦が危惧しただろうように、ヒメを失ってヒコ一人が残されては、ヒメヒコ制は機能しないのはもちろん、逆に、ヒコを失ってヒメ一人が残ったところで、いずれヒメヒコ制は維持できないでしょう。
神夏磯媛や速津媛も当面は本領を安堵されたかもしれませんが、時代が下り、朝廷の地方行政システムが整備されていけば、いずれそのシステムに組み込まれるか、あらためてはじき出されるか、どちらかだったでしょうし、市乾鹿文と市鹿文に至っては、その不孝のはなはだしきを、かえって天皇に憎まれるという、本末転倒な末路を迎えてもいます。

そういう意味では、沙穂姫と沙穂彦の物語は、単なる個人的な悲劇ではなく、単に沙穂の「クニ」の終焉の物語であるだけでもなく、ヒコヒメ制の時代そのものの終焉を告げるレクイエムのようにも思えてきます。
そして、ヒコヒメ制が祭政の一致・分業によってたつ制度だったとすれば、その終焉が、伊勢神宮が創建された垂仁天皇の御代に語られていることにも、ある種、運命的な相応しさが感じられるのではないでしょうか。

こちらで、神鏡の「複製」は、奉斎者の「分身」を生成させる行為であり、天皇というヒコに対して、(皇后ではなく)斎王こそが「ヒメ」ではないのかと書きましたが……
結局のところ、この時期、沙穂をはじめとする「クニ」が解体・再編される一方で、それら地方の祭祀・統治権が、日本「国」全体を治める新制度(伊勢神宮という朝廷のヒメヒコ制)に独占的・一元的に集約されていったのかもしれません。
(もっとも、ヒメヒコ制の「時代」そのものが終焉を迎えていたのだとしたら、朝廷のヒメヒコ制だけが無傷で永続しうるはずもなかったかもしれませんし、それが後々、内宮・外宮・斎宮をめぐる紆余曲折へとつながっていくことにもなるのかもしれませんが)

Amazon:
古事記 (中) 全訳注 (講談社学術文庫 208)
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
神話のなかのヒメたち ―もうひとつの古事記―


追記:
日本各地のヒコヒメ制が終焉したとして、それら旧制度の「否定」の上に立つ「朝廷のヒメヒコ制」だけが、いつまでも存続しつづける、ということは、可能でしょうか? 各地のヒコヒメ制を否定した時点で、自らのよって立つ基盤をも、同時に否定してはいないでしょうか?
古代の地方民にとって、「中央」やまして「全国」などというものは、生活実感を伴わない観念にすぎないのではないでしょうか? 生活実感を伴う身近なヒメヒコ制が失われ、その必要性も忘れられていくなかで、遠い彼方の奈良や伊勢に全国規模のヒメヒコがいらっしゃるのだと聞かされても、地方民としては反応に困るような気もします。
大和朝廷の成立が、各地方のヒメヒコ制の解体と表裏だったのだとすれば、結局のところ、伊勢斎王をはじめとする朝廷自身のヒメヒコ制もまた、返す刀で否定され、新たな形態に再編されざるをえなかったのではないでしょうか?
だから、と、言っていいのかどうかわかりませんが、大田田根子に引き継がれた大神神社や大和神社の祭祀はもちろん、伊勢神宮においてさえ、神宮自体の祭祀は荒木田氏や渡会氏の男性神職に掌握され、朝廷から派遣される「ヒメ」は、斎宮に留め置かれて、奉られると同時に、時代の変遷とともにその存在意義を見失っていったこと、こちらなどで考察してみたとおり。

ヒメの活躍と、退場。
地方でも生じたのと同じことが、遅かれ早かれ、中央でも起きていったような気がしなくもありません。
とすれば、沙穂姫・沙穂彦の物語は、大和朝廷をも含めた、さらに大きな「時代」の終焉を告げているのでしょうか。

纏向三代の統一事業は、次の成務天皇の御代に、国群・県邑の制が定められたことで、一応の完成を見ます。
国群・県邑の制とはつまり、ヒメヒコに治められていた(宇佐や沙穂のような)各地の「クニ」が、日本国の「官僚」に管理される「地方自治体」として整備されたことを意味するのではないでしょうか。
時代はすでにヒメの霊力を必要としない、世俗主義・官僚主義の時代に突入しつつあったのかもしれません。少なくとも、内政においては。
(成務天皇のさらに次の仲哀天皇の御代には、内政の充実を前提に、我が国は国外に雄飛し、外交に注力していくことになりますが、そこで再び、神功皇后という「ヒメ」の霊力が活躍することになります。とはいえ、困ったときのヒメ頼みというか何というか……女性首長の時代やまして女帝の時代が再来したわけでもなく、あくまで一時的なリリーフ登板。皇位について言えば、「女帝」は「中継ぎ」という方向へ進みこそすれ、時代が逆行することは、もはやなかったのではないでしょうか)
posted by 蘇芳 at 20:09| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする