2018年09月01日

【動画】【安全保障講座】忘れられた激戦の島~パラオ慰霊の旅 Part3[桜H26/10/30]


SakuraSoTV から。


動画概要:
2014/10/31 に公開
昭和19年9月に上陸を開始した米軍を日本軍が迎え討ち、2ヶ月に亘る壮絶な持久戦が展開されたパラオ共和国のペリリュー島。生存者が少ないがために「忘れられた激戦」とも言われる戦いから70周年を記念する式典に赴いた井上和彦が、委任統治領の時代から育まれてきた日本とパラオ両国の絆や、後世に語り継ぐべき先人達の戦いの軌跡についてお伝えします! 今回は、9月15日にペリリュー島で行われた記念式典の模様をお伝えするとともに、終戦後も戦い続けた日本兵34人のうちの一人である土田喜代一氏らが立てこもっていた自然壕の内部や、激戦の有様をそのままとどめている零戦や戦車の残骸、敵の大将・ニミッツ提督からの賛辞が刻まれた石碑などについて、写真をまじえながらご紹介します。

34人の生存者が、上官の命令によってようやく休戦を受け入れた、というのは、確かに凄い話ですが。
さらに恐るべき点は、必ずしもそれがペリリューだけにかぎった例外的な話ではない、ということではないでしょうか。
「戦後」も戦い続けた日本兵は、小野田寛郎さんにせよ、大場栄さんにせよ、期間の長短はあれ、最後に帰還するときには、やはり、同じような筋の通し方を貫いたのではなかったでしょうか。
ダメな日本兵が一人もいなかったなどという極論を言ってるのではありません。彼らは日本軍のなかでも特に優れた模範的な軍人だった、のかもしれません。(本人たちは自分たちは特別ではない帝国軍人として当然のことをしたまでだと言うかもしれませんが)
しかし、その「特に優れた模範的な軍人」が、何人も、何十人も、時には部隊規模で実在するという、そのこと自体、ある種の驚異と言ってよいのではないでしょうか。
Wikipedia:残留日本兵

惜しむらくはその一流の兵隊たちの能力を、勝つためではなく敗北を引きのばすためにしか活用できなかった、戦略・外交の劣弱ではないでしょうか。
外交レベル戦略レベルの敗北のしわ寄せを現場に押し付けたあげく、さらにはその現場の努力さえ忘れ果てる戦後精神の堕落に至っては、何をかいわんや。
小野田寛郎さんが特に有名ですが、帰還した残留日本兵の中には、変わり果てた祖国になじめず苦悩された方も一人や二人ではなかったのではないでしょうか。

とすれば、今もなお社会を蝕みつづけるその堕落の元凶から「日本」を取り戻す。それこそは、(靖国や遺骨収集などとはまた違った意味で)、英霊に応える道として、今最も注力すべきことなのかもしれません。
そして、米国の一部があの戦争の「真相」に気づき始めた(※Amazon:アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄 (祥伝社新書) )というのが本当なら、今度こそ、日米は、共にその道を歩む同伴者として結束すべき/しうる、のでしょうか?
そううまく行くかどうかはわかりませんが、もしその可能性があるのだとしたら、今度こそ、前線部隊だけではなく、戦略・外交・インテリジェンスのレベルでも、後れを取らないようにしたいものですし、そのためには私たちの精神を内側から蝕む「敵」の存在に早く気がつくべきなのかもしれません。

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パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか
パラオの心にふれて―思い出の中の「日本」
絆抱くペリリュー・日本を愛する島

玉砕の島 ペリリュー 生還兵34人の証言
ペリリュー戦いいまだ終わらず―終戦を知らずに戦い続けた三十四人の兵士たちの物語
サクラ サクラ サクラ 玉砕ペリリュー島 生還兵が伝える日本兵の渾身の戦い (光人社NF文庫)

アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄 (祥伝社新書)
日本占領と「敗戦革命」の危機
ラベル:パラオ
posted by 蘇芳 at 19:51| パラオ共和国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする