2018年07月27日

【動画】琉球王国と源氏 + 源為朝上陸の碑


eboardchannelokinawaBBtv から。





動画概要:
1)2013/03/10 に公開

2)2014/12/11 に公開
源為朝上陸の碑(今帰仁村)の詳細情報はこちら↓
http://www.okinawabbtv.com/navi/111.html

為朝伝説自体は、まあ、伝説かもしれませんが。
琉球自身が為朝の子孫を公文書で自称していたということ、すなわち、そこにステータスを見出していたということ自体は、まぎれもない事実であり史実でしょう。

(ちなみに薩摩の島津家なども出自としては清和源氏を名乗っています。自称源氏などは日本中あちこちにいたのですから、為朝その人ではないまでも、沖縄まで流れて定着した源氏の一族がいたとして、それ自体は何ら不自然ではありませんし。彼らを糾合しようとする何者かが、源氏を名乗るなり騙るなりしても、やはりおかしくはないでしょう)

こちらで見たように、信長なども貴種を自称していた節がありますし、秀吉などは平朝臣を名乗ったり公家の養子になったり、果てはご落胤伝説を流布しようとしたりしていたとか。
主家を乗っ取った斎藤道三などは言うまでもなく……彼らに限らず、家系を買ったり騙ったりした武将は、珍しくなかったかもしれません。
戦国大名の官位官職へのこだわりを見ても明瞭なように、意外と権威がモノを言った時代。乱世にあっても、というより、乱世であればこそ、なおさら、戦わずして「人を従わせる力」は重視されたでしょう。そういえば「尊卑分脈」の編纂も南北朝の動乱期のことだったかと。

何も中世に限ったことではありません。
記紀をはじめとして「先代旧事本紀」などの古代の文献に、豪族の系図について特に入念な記述が見られるのは、朝廷側の都合というより豪族サイドからの要請だったとか。武家の時代のはるか以前から、名のある氏族は、その起源を皇室と関連付けようとやっきになっていたという……そうした周辺豪族と中央政権との依存関係は何も日本にだけ限った特殊個別的な話でもなく、洋の東西を問わずしばしば見られる現象ではないでしょうか。

つまるところ琉球も、同時代の他の地方領主たちと同様、源氏という貴種の権威を欲する存在であり、源氏を貴種として尊重する認識を持った勢力だったということでしょう。
王「国」などという言葉でミスリードされがちですが。尾張だって三河だって越前だって筑前だって、みんなみんな「国」を名乗っていたのが昔の日本。要するに沖縄もそうした日本を構成する「国」の一つだった、というだけのことではないでしょうか。

沖縄というとその「独特」の文化に内地との差異を感じ、異質性を強調しようとする向きもあるかもしれませんが……
それと同等かそれ以上に存在する、共通性・同質性を見落としてはならないように思います。
縄文土器も勾玉もそうですし、ニライ信仰さえ日向神話や浦嶋子、弥勒舟などとの類縁・関連が見て取れるとか。。
また、いわゆる沖縄弁(うちなーぐち)にしたところで、単語の音がかなり転訛していることは確かですが、音の転換に一定の法則性はあるようですし、そもそも、語順や文法自体はまぎれもない日本語でしょう。
しかもそのルーツが、はるか縄文時代にまで遡れるかもしれないとしたら、どうでしょうか?

こちらでも引用した小林達雄「縄文の思考 (ちくま新書)」には、
> ところで、津軽海峡は、本州と北海道を隔てる難所であることは言うまでもない。今日でも海難事故がしばしばである。新鋭の漁船にしても安全というわけにはいかぬのだから、それに較べたら百分の一以下の性能ともみられる縄文人の丸木舟では大変なことである。それにもかかわらず、縄文時代を通じて、頻繁に往来し、いつも海峡を挟んで一つの文化圏を形成していた。
> ところが、北海道の北端、宗谷岬から樺太の丘が見えるのに、縄文人も、樺太先住民も互いに一向に往き来していない。また、九州の縄文人は朝鮮海峡の朝鮮半島寄りに位置する対馬までは活動舞台としているのに、そのまま少し足を伸ばして彼地に渡るかというと、そうではない。このことが航海術の未熟のせいでないのは、津軽海峡の往来で実証されている。そればかりか、九州南端からは奄美、沖縄本島にまで、新潟県に産出するヒスイを携えた縄文人の航跡を辿ることができるのであるから、宗谷海峡と朝鮮海峡を漕ぎ渡らなかった理由は航海術の問題ではなく、別にあったとみなくてはならない。
> それこそがコトバの問題以外のなにものでもない。実は、樺太と朝鮮半島には渡った証拠として、縄文関連の文物がごく少数認められるが、お互いに気ごころを通じた仲間として一度たりとも同じ文化圏を形成することがなかった事実は大きな意味をもつ。それは、コトバが通じなかったから、それ以上の親密な関係を結ぶことができなかった事情によるのであろう。渡海の技術上の壁よりも、コトバの壁を容易に越えることができないのは、現代我々の体験上だけでなく、縄文人とて同じだったのだ。
> つまり縄文文化は、ちょうど日本列島内に収まり、樺太、朝鮮半島には異なる文化が対峙していた様子を物語っている。まさに縄文列島あるいは縄文日本語列島の名に値する。コトバは文化であるから、彼我とはコトバが違い、文化が異なっていたのである。たとえばともに土器を製作し、使用していたが、縄文土器が独特な個性を発揮する口縁の突起や波状口縁は、彼の両地域にはその片鱗すらみることができない。このことは突起や波状口縁に対する縄文語コトバと、それにまつわる意味については、彼地には全くなかったことを物語る。
とのくだりがあります。
無文字時代の言語という困難な問題について、特定の主張をすぐに鵜呑みにできるかどうかはともかくとしても。無文字時代であればこそ、コトバの壁は、むしろ現代より以上に高かったと考えることはできるかもしれません。
そんな時代の沖縄が、(樺太や朝鮮とは違って)、日本列島内で「お互いに気ごころを通じた仲間として」「同じ文化圏を形成」していた。そしてそこには(多少の訛はあったとしても)相通じるコトバの共有があったとすれば……

はるか縄文時代の昔から、私たちと同じコトバを共有する人たちが住む島々を、「日本」という以外、何と呼べばよいのでしょうか?

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祖国復帰は沖縄の誇り
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ラベル:沖縄 縄文
posted by 蘇芳 at 21:10| 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする