2018年07月22日

【動画】日本遺産「いざ、鎌倉」禅でひもとく鎌倉の美


鎌倉市公式チャンネル から。


動画概要:
2017/05/09 に公開

時代が変わると宗教界にも余波が及びます。
時には宗教界の変化こそが時代を変えていくことさえあるかもしれません。

欽明天皇の御代に仏教が公伝すると、蘇我と物部・中臣の対立が生まれ、その影響は、大化の改新を経て、壬申の乱にまで尾を引きました。

奈良時代には聖武天皇、孝謙・称徳天皇の御心で国家仏教が盛んになりますが、それが玄昉や道鏡の跳梁を招き、国家転覆の危機を招来したことはあまりにも有名でしょう。

平安時代には、そうした南都仏教との決別を期して、新たに北嶺の新仏教が育成されますが。
それもまた長い平安時代を通じて、俗臭芬々たる政治勢力へと堕落していったことは、一面の真実として、否定のしようもないことかと思います。

政治の中心が京都を離れた鎌倉時代にも、仏教界に再編の波が押し寄せることは必然だったでしょうし、その場合、今度は(かつて新仏教だった)延暦寺こそが旧仏教として挑戦を受けることになっていったかもしれません。(以前こちらで鑑賞した道元禅師の映画も、普通に比叡山の僧兵が悪役でした)

そして、現世利益を説いたあげくに世俗化・政治勢力化した天台真言の密教に対して、何者かが思想的に挑戦するとした場合、そこに、ある種、脱俗・超俗の清新さが求められるであろうことは、わかりやすいなりゆきというべきでしょう。
内省的・内観的な禅の思想は、その意味でも、時代の要請に応えうるものだった……のかもしれません?

ちなみに、かつて桓武天皇が、腐敗堕落のあげくに皇位簒奪を企てた南都仏教と決別するために、比叡山以前に試みられた仏教改革の一例も、脱俗・超俗の学堂・梵釈寺でした。
日本仏教の歴史は、そもそもの始めから、政権との癒着とそのあげくの堕落、そしてそこからの再出発(そして再びの癒着と堕落)をくりかえし、「聖」と「俗」とのあいだを振り子のように振幅してきたのかもしれません。

なお、こうした仏教の史的展開は、(あまり注目されないかもしれませんが)、神道の展開にも影響を与えています。

奈良時代にはこちらで触れた神身離脱説や護法善神説によって、神は仏の家来や弟子という従属的な地位を余儀なくされました。
平安時代に北嶺の新仏教が比叡山の鎮守として日吉神を祀ったあたりから、山王神道という形で新しい神仏習合説が唱えられるようになり……平安時代も後半になると有名な本地垂迹説として体系化されるようにもなったようです。
以後、垂迹神と本地仏の同定が盛んに試みられるようになりますが、その流れを引き継いだのが鎌倉時代。

仏教側の一方的な押しつけだけではなく、神社界の側からも、積極的に、神仏習合を受け入れ、活用しようとする機運が盛んになっていったのも、この時代だったかもしれません。
たとえば、鎌倉時代には、新仏教諸流派の興隆とともに、仏像彫刻の分野でも新生面が開かれますが……彼らいわゆる鎌倉仏師の手によって、神像彫刻が盛んに彫られたのも、この時代。
鏡や剣といった依代ではなく、人の形をした偶像が作られ、祀られるようになった、神道史上に例外的な一時期を画したのも、つまるところ仏教の影響によるものではなかったかと。

こうした、カミとホトケがいよいよごちゃ混ぜになっていく、ある意味、混沌とした展開の背景には、よく言われるように、本地垂迹説が曲がりなりにも神と仏を同格の存在として認め、神社界にとっても比較的受け入れやすい思想だったということもあるかもしれませんが……同時に、武家政権の成立にともなう経済的条件の変化という事情もあったかもしれません。

元々、平安時代から、荘園(私有地)の拡大にともなう税収の不足は、朝廷の悩みの種でしたが。武家政権の成立によって、ついにはその徴税実務の権限すら、朝廷の手を離れることになったのではなかったでしょうか。
神祇令が定められ、律令国家の国家予算が充当されていた神祇祭祀にとって、律令国家の経済的破綻は、深刻な影響をもたらさざるをえないでしょう。
幕府がその代役を果たしてくれるならよいですし、こちらでも書いた通り、建前上は、一定の配慮もあったはずではありますが……すべてがまったく以前のまま、というわけにもいかなかったのは、むしろ、当然だったかもしれません。

一例を挙げるとすれば、天皇陛下の祭りの庭として、私幣禁断のお宮とされていた伊勢神宮が、諸大名の参宮を、やがては庶民の参拝までをも認めるようになっていく(認めざるをえなくなっていく)のも、鎌倉時代以降のことだとか。
要するに、皇室の宗廟たる伊勢神宮においてすら、朝廷の予算ではなく、諸大名の寄進や、あげくは庶民の「御賽銭」にさえ頼らざるをえなくなっていったのが、武家の時代。
伊勢神宮外宮の渡会神道は、内宮への挑戦の色彩が強く、いろいろと問題がある思想でもありますが……彼らか宇宙の根源神を構想しなければならなかった背景には、経済的自活の必要性に迫られ、より訴求力の強いハッタリの利いた「御本尊」を必要とした、という、のっぴきならない事情もあったのかもしれません?

伊勢神宮でさえそういう状況なら、他の神社はなおさら。朝廷や幕府以前に、地元の守護や地頭や、さらには庶民の支持を受ける必要があったでしょうし、そのためには、彼らが信仰する仏教との対立は、避けたほうが賢明だったに違いないのではないでしょうか。(朝廷との直接的な結びつきが伊勢神宮ほどには強固ではない諸社なら、むしろ、伊勢神宮よりはるかに先行して、はるかに積極的に、仏教を受け入れてもいたでしょう)

どうにも世知辛い話になってきましたが……💧

同時代の人々にしてみれば、この混沌は、それこそ、内心の平安を求めて、カミでもホトケでも、どちらでもよいからすがらせろ、と、言いたくもなる状況だったかもしれませんね。。

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posted by 蘇芳 at 21:11| 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする