2018年07月09日

【動画】伊勢物語 第百二十五段 つひにゆく道

>今はただ恨みもあらじ諸人のいのちにかはるわが身とおもへば
は、こちらで見た別所長治、
>あらたのし思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし
は大石内蔵助、
>身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂
は、言わずと知れた吉田松陰、
>大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし
は阿南惟幾、
>我ゆくもまたこの土地にかへり来ん国に酬ゆることの足らねば
は東條英機。

あえてやや軽薄な形容詞を選ぶとすれば、いわゆる「カッコイイ」辞世は、枚挙に暇がありません。
「死」。それは肉体としての個の終焉であると同時に、その「完結」によって自己の生涯という「物語」をいかに意味づけるかという、文字通り一世一代の晴れ舞台でもあるのかもしれません。

ところで、このカテゴリでは思いつくままに「伊勢物語」について駄弁を連ねてきましたが……
歌仙と称えられる在原業平(に擬せられる昔男)、その生涯の最後には、いったい、どんな歌を詠んだでしょう?
何しろ「歌仙」サマであらせられますから、さぞやスバラシイ、後世の模範になるような感動的な辞世ヲ詠ンダニ違イアリマセンネ。



>つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふ今日とは 思はざりしを

……。
…………。
………………。

えーと💦

超訳します。
>いや、まあ、ね? そりゃ、さァ、人間、誰でもいつかはタヒぬとは前々から聞いてはいたけどさぁ、え? 何? 今日? 今日なの? あれ? ねぇ? マジ?  嘘でしょ? 今日なの? (´・ω・`)ショボーン
この訳だとさすがに悪意がありすぎますがw
しかし、意味的には、そんなに間違ってもいないような気はするのです。

もちろん、詞書は「わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ」とあるだけで、実際に本当に死んだとまでは書かれていません。いわゆる「死ぬかと思った」だけかもしれませんが、全百二十五段の一代記の最後の締めくくりの歌には違いないのですから、実在の在原業平とは区別するにしても、物語の主人公としての「昔男」にとっては、これが絶唱であり、辞世といってよい扱いにはなっているでしょう。それこそ文字通り、生涯という「物語」を完結させ意味づけるための一首ではないでしょうか。

それにしては、ずいぶんと、また、締まらないピリオドもあったものです。
同じ死とは言っても、思いがけない病死ですから、冒頭で引用した覚悟の名歌の数々と比較するのも酷というものかもしれませんが……
たとえ病死ではあるにしても、たとえば、(歌ではなく句ですが)
>旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
などと詠んだ人も後世にはいるわけですから、歌仙ともあろう御仁なら、もう少し、中二病的に「カッコイイ」辞世を残してくれてもよかったような気はしないでもないかもしれません。

しかし、また、そういう中二的なカッコヨサに溺れない、平明率直なこの歌こそが、むしろかえって歌仙の風格、とも言えなくはないかもしれません。

そもそも、冒頭に掲げた名辞世五首は、いずれも戦国時代や江戸時代の武士だったり、近代の軍人だったり、と、いわゆる儒教的な過激な価値観でその生涯を律した人たちのそれでしょう。それはそれで一つの価値観・人生観・死生観ですが。それが唯一無二完璧絶対のテツガクであるとは限りません。在原業平が平安時代のいわゆるお公家さんであってみれば、なおさら、後世の武家とは別の価値観・死生観があってもまったくおかしくありませんし、それが武士のそれに劣っていると決めつけることも、誰にできるというものではないのではないでしょうか。

そういうつもりで改めて上の一首を味読してみれば、
>つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふ今日とは 思はざりしを
少なくともこの歌、いわゆるカッコヨサはないかもしれませんが、しかし間違いなく、正直ではあるのではないでしょうか。
オレサマはそんなミットモナイまねはしないじぇ、などと、それこそ幼稚な見栄をはらなければ、死病につかれた誰しもがきっと感じるであろう動揺が、ありのままに把握され、率直に披瀝されている。人間はいつか死ぬという事実、その事実を普段は忘れて生きているという事実、死を迎えるその時に突然何の覚悟もないままその事実をつきつけられ、ただ狼狽えることしかできないのが、偉人でも豪傑でもない普通の人間の赤裸々な姿であるという事実が、気負いもなくストレートに描きだされている。そういう意味では、むしろ、恐ろしいまでに「事実」を直視した、リアリズムに徹した歌だとも言って言えないことはないかもしれません。

以前、こちらで、吉田松陰の「大和魂」と本居宣長の「やまとごゝろ」にはかなりの違いがあるのではないかと書きましたが……
儒教的な美辞麗句や屁理屈を排斥し、日本古来の「ありのまま」の精神の復権を唱えた宣長であれば、それこそ、無駄に格好をつけない、こうした正直さをこそ、あるいは高く評価するのかもしれません。
実際、「紫文要領」の著者でもある宣長は、「食わねど高楊枝」的なやせ我慢の武士よりも、むしろ、何かというとメソメソ泣きだす「もののあはれ」なお公家さんのほうに、共感を寄せてはいなかったでしょうか。
(さらに遡ればその共感は、日本武尊や素戔嗚命など「武」のイメージの強い人格・神格にも行きつきますが、宣長が注目するのは、叔母・倭姫命の前で落涙したり、「八拳須心の前に至るまで」泣きわめいていたりする、現代的な感覚ではどちらかというと「情けない」場面だったりもします)

もちろん、正直というのも美徳であり悪徳であり、やせ我慢もまた悪徳であり美徳であり、結局のところ、ケースバイケースでしょう。
異なる価値観のどちらかが絶対的に正しいなどと言い張りあうのは不毛ですが……
であればこそ、「現代のサムライ」の恣意的な誤読を相対化する、公家的な視点も、それなりに見なおされてよいのではないか、とも、思えなくはない今日この頃なのです。

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posted by 蘇芳 at 21:54|  L 「伊勢物語」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする