2018年07月06日

【動画】日本遺産~祈る皇女斎王のみやこ 斎宮~11 竹神社


明和町公式動画 から。


動画概要:
2017/05/08 に公開
平成27年4月 文化庁が新たに創設した制度「日本遺産」に明和町が申請した「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」が認定されました。この番組では「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」を語る上で不可欠な文化財群をご紹介します。第11回目は「竹神社」です。
三重県神社庁教化委員会 » 竹神社
明和町ホームページ:ストーリーの構成文化財一覧表

すでにこちらで言及したように、三重県「多気」郡は、もとは「たき」ではなく「たけ」だったとか。竹神社の社伝によれば、その由来は「竹連」「竹氏」という豪族だったらしいですが……三重県神社庁のリンク先の説明にある「倭姫命のお供をしてこの地に留ま」った「宇加之日子の子の吉日古」の名は、鎌倉時代の「倭姫命世記」の櫛田川~佐々牟江~大淀あたりの記述には登場しなかったようにも思います。
(その直前のくだりに「百張蘓我の国、五百枝刺ス田の国」という発言はありますが、語っているのは「大若子命(渡会氏の祖神)」です)

軽く検索してみると、「竹の首吉比古」の名がみえるのは、延暦二十三年(804年)成立の「皇太神宮儀式帳」のようで……
それなら、鎌倉時代の偽書とも言われる「倭姫命世記」よりは、むしろかえって信憑性が高いのかもしれません。

また、「竹神社」の名は「延喜式神名帳」に、「竹上社」の名は「延喜式」巻5斎宮寮にも見えるそうで。いわゆる「式内社」ではあったようです。
「上社」というのは、つまりかつては「中社」や「下社」とワンセットになっていたということでしょうか。
付近には「竹佐々夫江神社」「竹大與杼神社」など、「竹」の字を共有する神社が、ちょうど二社ありますし、これら社名もやはり「延喜式」にすでに見えているようですから(※ソースは「日本思想大系〈19〉中世神道論」頭注)、つまりそういうことかもしれません。

しかし、この二社についても、「倭姫命世記」ではそれぞれ「佐々夫江社」「大与度社」と記されているだけで、「竹」の字が欠落しているのですよね。(しかも「竹神社」は登場すらしません)
田の国」の名乗りを挙げる人物が吉日古ではなく大若子命にすり替えられていることとあわせて考えると、偶然とも言い難いように思います。

「倭姫命世記」が、自分たちの都合のいいように伊勢神宮の伝承や「教義」を捻じ曲げようとした外宮の渡会氏によって書かれた偽書だとすれば、(※【動画】豊受大神宮 - 伊勢神宮 [外宮])、つまるところ、内宮だけでなく斎宮(を支える氏族)に対しても、含むところがあったのでしょうか?

個人的に、渡会氏に軽蔑を感じるのは、これが始めてというわけではありませんが……
明治以降、神主の世襲制が崩されたことは、こと伊勢神宮に関しては、幸いだったと言わざるをえないのかもしれない、と、また改めて思わされるような次第です。

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posted by 蘇芳 at 20:52|  L 斎宮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする