2018年07月04日

【動画】日本遺産~祈る皇女斎王のみやこ 斎宮~9隆子女王の墓


明和町公式動画 から。


動画概要:
2017/05/08 に公開
平成27年4月 文化庁が新たに創設した制度「日本遺産」に明和町が申請した「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」が認定されました。この番組では「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」を語る上で不可欠な文化財群をご紹介します。第9回目は「隆子女王の墓」です。
Wikipedia:隆子女王 (斎宮)
明和町ホームページ:斎王紹介その4

制度が固まっていなかった時代はさておき、基本的には、天皇一代につき斎王も一人。
こちらで妄想したように、伊勢と宮中の神鏡がお互いの「分身」であるとすれば、それを祀る天皇と斎王も相互に「分身」と見なすこともできるかもしれませんから、この制度的な一対一対応も自然なことに思われます。
(ちなみに宮中で天皇に対して行われる元旦の拝賀=朝賀は、
Wikipedia:朝賀
天皇の他に、唯一、(皇后でも皇太子でもその他皇族でもなく)、伊勢の斎王に対して行われていたという記録があるそうです。※榎村寛之「斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史 (中公新書)」)

しかし、何事もままならないのが世の中というもので。やむない事情で一代のうちに斎王が交代した事例もいくつかはあるようです。
平安時代の斎宮式には、天皇の譲位や崩御以外にも、斎王の近親者の不幸や本人の病気などの凶事によって、例外的に斎王が交代する事態も想定され、規定されていると言います。

現存する式といえば延喜式が有名。醍醐天皇の孫である隆子女王の時代には、当然、すでにその規定もあったはずだと思われますが……
交代・帰京の余裕もなく、伊勢で薨じた隆子女王。かなりの急死であったということでしょうか。明和町の公式サイトでは、死因は「疱瘡」となっているようです。
明和町ホームページ:斎王紹介その4
天延二年の疱瘡については、「大鏡」や「蜻蛉日記」にも言及があり、かなりの猛威をふるった流行だったようですね。。

疱瘡≒天然痘といえば、しばしば正史にも顔を出す疫病。奈良時代の藤原四子などをはじめ、名のある貴族も数々命を落としていますし、その原因が時の政府の悪政に結び付けられることも珍しくはない、古代の一大脅威ですが……
にもかかわらず、当時の対処法といえば、加持祈祷くらいしかなかったわけで。
平安貴族にとってさぞや恐怖の的だったでしょう。
オマジナイで病気が治るなどというのも、現代人の目から見れば迷信でしかありませんが、当時の人たちにとってみれば、生死にかかわる一大事。さらには、(末法思想の流行期でもありますから)、「死後」にもかかわる一大事だったかもしれません。

まして、こちらなどでも軽く触れておいたとおり、伊勢神宮は仏教禁断ですから、その加持祈祷すらも十分には受けられなかったかもしれません。都を遠く離れて、さらにそのうえ……となれば、隆子女王、どれほど心細い想いをされたことでしょうか。
もちろん、仏法の加持はNGでも、神祇への祈祷はさすがにOKだったと思いたいですが……それだけで十分、と、隆子女王自身が納得して、心安らかでいらっしゃれたかどうか?
信仰という、つまり内心のことですから、そこが最大の問題であり、謎でもあるのかもしれません。

斎宮に興味を持って、明和町を訪れる機会があれば、いにしえの斎王のお墓に、せめて静かに手を合わせてみても、バチは当たらないかもしれません。

Amazon:
斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史 (中公新書)
伊勢斎宮と斎王―祈りをささげた皇女たち (塙選書)
神に仕える皇女たち―斎王への誘い― (新典社選書 75)
伊勢神宮に仕える皇女・斎宮跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
夢とモノノケの精神史―平安貴族の信仰世界 (プリミエ・コレクション)

追記:
しかし、そもそも伊勢の大神にお仕えする斎王が、疫神(ごとき)に命を奪われるというのは、社会的にはどれほどのインパクトをもっていたでしょうか? 伊勢の大神でさえ疫神を防げない、もっと強力な「神」が必要、それこそはミホトケである……などということにでもなれば、それすなわち神宮の「敗北」ということにも、なったりはしなかったでしょうか?
前出の榎村寛之「斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史 (中公新書)」には隆子女王本人を主題にした章節はありませんが、何カ所かに言及はあり、
>彼女が死ぬと、それまで開かなかった伊勢神宮正殿の扉が突然開いたとも伝わる。とにかく大変な事態であった。(P73)
などとも記されているようですが……タイヘンダーと口で言うわりには、具体的にどのような社会的影響があったかまではあまり指摘されてもいないようです? こちらでも書いたとおり、斎宮というのも、いつしか形骸化していき、遂には途絶した制度ですから、結局のところ、この時点ですでに影響も限定的だったのでしょうか?

追記:
余談ですが、神祇信仰にも疫病対策の習俗は数々あり……中でも有名な蘇民将来・牛頭天王の民間信仰は、後世、伊勢地方でもわりと盛んになっていくようです。
三重の文化:二見町◆蘇民将来
民話の駅 蘇民:牛頭天皇と蘇民将来
Wikipedia:蘇民将来
仏教禁断の伊勢神宮の神領民的に、疫病封じもカミサマに~という思いがあったのかどうなのか。わかりませんが。
ちなみに明和町でも、江戸時代以来、祇園祭が行われているそうですね。
Wikipedia:大淀祇園祭

posted by 蘇芳 at 21:50|  L 斎宮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする