明和町公式動画 から。
動画概要:
2017/05/08 に公開
平成27年4月 文化庁が新たに創設した制度「日本遺産」に明和町が申請した「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」が認定されました。この番組では「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」を語る上で不可欠な文化財群をご紹介します。第8回目は「斎宮出土品」です。
明和町ホームページ:斎宮 > 斎宮発掘情報
斎宮歴史博物館:斎宮跡発掘調査50年のあゆみ
こちらでもチラッと触れたように最後に斎王を卜定した天皇は後醍醐天皇。
以来、いわゆる室町時代には斎宮はまたたくまに荒廃したらしく、早くも初代将軍高氏在任中の康永元年(1342年)には「築地塀には草木が茂り、鳥居は朽ち果てていた」と記されているそうですし(坂十仏「伊勢太神宮参詣記」)、それから80年ほども経った第四代将軍義持の時代には、「斎宮の跡はこのあたりだといわれているが、木や竹がひどく茂っているばかり」だと記した旅行記(花山院長親「室町殿伊勢参宮記」)があるほどだそうで……もはや完全に「幻の宮」と化していたようです。
その後時代が下るにつれ、尊皇家や敬神家や研究者によって、斎宮の復興や調査研究の必要が説かれることも何度かありはしたようですが、いずれも大きなうねりにはならず、ようやく斎宮跡の本格的調査が始まったのは、戦後、昭和も40年代になってからのことでした。
そんなに長い間日本人は何をボヤボヤしていたのだケシカラン、などと後出しのゴーマンをかますのは簡単ですが。これはこれで悪いことばかりではなかったかもしれません。何となれば、未成熟な技術による発掘調査には、遺跡そのものを破壊する可能性が、つきものでしょうから。
斎宮が、科学的な考古調査技術がある程度確立された20世紀、それも戦後にいたるまで忘れ去られていたということは、埋蔵文化財の保護という観点からは、かえって、意味があったとも言えなくはないのかもしれません。
しかし、そのまま埋蔵しつづけておくわけにもいかない、別種の「危機」は間近に迫っていました。
イケイケドンドンの高度経済成長とそれに伴う開発の波が、埋蔵文化財にとって大きな脅威だったことは言うまでもないでしょう。
昭和44年(1969年)、経済企画庁が「新全国総合開発計画」を発表。
昭和45年(1970年)、斎宮旧跡、明和町古里地区にも、大規模な団地造成計画が持ち上がり、三重県教育委員会と明和町教育委員会は、遺跡の範囲・状況把握のための予備調査を実施。この時の試掘調査だけでも、奈良時代や鎌倉・室町時代の土器片が大量に出土するとともに、建物の柱穴・大溝跡などが確認されたといいます。
しかしまだまだ「予備」調査の段階。国指定の文化財その他、法的な「保護」を得られるはるか以前の状態。造成計画に変更はなく……すべてが台無しにされる前に、と、古里地区の緊急発掘調査が行われたのが、昭和46年(1971年)10月~のことでした。
この昭和46年の発掘調査で発見されたいくつかの出土品が、かの地が斎宮跡であることの動かぬ証拠となり、さらなる調査の実施や、団地造成予定地の土地買戻し&保存を行うよう、三重県知事に対して陳情が行われるきっかけとなるなど、以降の流れを大きく変えていくことになるようです。
この時に発掘され大きな注目を集めた出土品のひとつが、「蹄脚硯」の破片だったといいます。
上の動画でいうと、最後の写真の真ん中あたり(ちょうど緑釉陶器の隣?)に写っている、タコのように何本もの脚で支えられた灰色の円形の器物が、「蹄脚硯」の類ではないかと思われますが。。
斎宮歴史博物館: 情報データベース - 須恵器 蹄脚硯(レプリカ)〈斎宮跡出土〉「硯」ですから、当然、習字というか文字を書くための道具。つまり持ち主は識字層。奈良時代の農山漁村の一般家庭からおいそれと出土するような代物ではありません。
事実において、当時、蹄脚硯の破片は、平城宮や大宰府、多賀城など、奈良時代の国家の官衙からしか出土していなかったそうで(現在はさらに出土範囲が広がっている可能性はあるかもしれませんが)……国家の役所のひとつでもある斎宮の伝承地からそれが出土したことには大きな意味があったようです。
さらには同じ調査で、古墳時代~奈良時代に使用された祭祀遺物である「土馬」、それも全国的に見ても珍しいレベルの大型のものが発見されており……明和町古里地区の遺跡が、単なる一般集落ではなく、国家的な官衙であると同時に祭祀遺跡でもあるという性格が、いよいよ明らかになってきました。
これらの調査結果を受けて、昭和47年(1972年)、「三重県文化財を守る会」が前述の陳情を行ったのを皮切りに、県内外から多数の要望が寄せられ、昭和48年(1973年)には県教育委員会による斎宮跡の範囲確認調査が実施、東西約二キロ、南北約一キロの広大な範囲にわたって、大量の土器片、緑釉陶器片(動画にも登場。平安時代から流通。蹄脚硯同様、やはり都城遺跡や主要官衙からしか出土実績がない考古遺物)、大型の掘立柱跡などが次から次へ出土。斎宮跡が想像を超える広大な遺跡であることが明らかになり、古里遺跡保存運動もがぜん勢いを増していったとのこと。
その甲斐あってか、ついに昭和54年(1979年)、「斎宮跡」は国の史跡(宮跡)に指定された……のだそうです。
以上。駆け足の付け焼刃の受け売りでしたが……
どちらかといえば自然科学の領域に属する考古学。文献史学や文学とはまた違った角度から斎宮、ひいてはわが国の祭祀・伝統・文化・精神へとアプローチしうるものでもあるのかもしれません。(「ゴッドハンド」は願い下げですがw)
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