ある研究者に言わせると、斎宮制度最大の特徴はそれが「終わった」ことだという。なるほど。いわゆる”連綿と続く天皇の祈り”的な国体観は、細部の具体的な祭式の変遷や反日勢力の揚げ足取りをさておけば、歴代天皇の「本意」の継続性という一点において、決して嘘ではないと言えるだろう。しかし、その一貫した皇室の祈りの伝統の中で、よりにもよって、伊勢神宮に派遣される皇女という、幾重にも神聖かつ重要な意味付けが可能だろう制度が、南北朝の到来とともにあっさりと途絶し、そのまま現代まで(つまり明治維新においても)再興されることなく、「終わった」まま放置されているのは、確かに不思議でもあり、謎でもあるかもしれない。
もちろん、南北朝の動乱期であるから、政治的・軍事的・経済的・思想的に、さまざまな現実的困難があったことは確かだろう。しかし、戦国や武家の世を通して、いかに皇室の衰微・式微が嘆かれることはあっても、さまざまな皇室祭祀の復興が決してあきらめられたわけではなく、江戸時代になってから、実に数百年ぶりに復興された儀式などというのもいくつかある。裏を返せば、現実的な実施が不可能であっても、実施されるべきだという固い意思は数百年たっても揺るがなかった、一方ではそういう儀式や祭祀もあるのである。(伊勢神宮の式年遷宮にしても、慶光院の尼僧や、観光ガイドにはなぜかあまり載っていないが織田信長の尽力などで、戦国時代にも復興している。むしろ戦国の動乱期にこそ、地方の下級の実力者たち(実力はあるが家柄や権威が無い)が、朝廷の持つ「ソフトパワーへ」の憧れを強めたらしいことは、こちらなどでも見た通り)
戦国動乱から天下統一への時代の変遷は、天皇・皇室の権威にとっても、大きな試練であると同時に、起死回生の一大チャンスでもあったのではなかったか。この期間を通して、もしも、皇室に、朝廷に、伊勢神宮に、斎宮復興の固い意志があったのなら、それは決して不可能なわざではなかったようにも思える。にもかかわらず、斎宮は復活しなかった。復活させようという目立つ動きさえもなかった。のだとすれば、斎宮というその制度は、すでに時代に要請されなくなっていたと考えざるをえないように思う。別の言い方をするなら、「斎宮」という制度を必要とした社会的条件が崩壊した、あるいはすでに崩壊していたことがあからさまになった、のが(最後の斎王を派遣した)後醍醐天皇の御代だったのではなかったか。
それでは、そもそも、斎王・斎宮という制度を必要とした社会的条件、古代には確かに存在したにもかかわらず遅くとも南北朝期には名実ともに失われてしまったらしいその社会的条件とは、何だったか? 言い換えるなら、そもそも、斎宮制度は何のために創出されたのか?
ここから先は研究者でも何でもない単なるディレッタントの根拠のない妄想だが……
斎宮とは祭政が文字通りに一致していた頃の古代日本に存したという「ヒメヒコ制」の、皇室による一変奏であり、「ヒメ」と「ヒコ」による「祭」と「政」の分業が、やがて「天皇」と「臣下」による「権威」と「権力」の分担へと移行するなかで、「ヒメ」の存在が宙に浮いていった。そうした見えない歴史的水脈を内蔵してはいないだろうか?
唯物史観的に反日左翼さえ実在に意義を唱えることができない最初の斎王は大来皇女らしく、その背景には、白村江敗戦以後の国難突破≒国民国家創出という契機があったようだが。
記紀の伝える、伝説的な起源においても、斎王誕生の背景には国家的危機があり、御肇國天皇(ハツクニシラススメラノミコト)こと崇神天皇による、国家祭祀の整備事業があった。
天皇が、天照大神と大倭国魂神の「勢」を畏れて、それぞれの神を皇宮の外にお祀りするようになった。その天照大神の祭祀を担当したのが皇女・豊鋤入姫命であり、いわば斎王のルーツ的な存在。
しかしそもそも、ここで言う神の「勢」だの「畏れ」だのというのは、具体的には、何を言い表しているのだろうか?
崇神天皇の御代には、疫病の流行とそれへの対処としての祭祀が伝承されているが、疫病の流行を直接的に解決したのは、あくまで大神神社の再建であって、伊勢神宮の創祀ではない(伊勢神宮の創建はそもそも次世代の垂仁天皇の御代)。
神鏡の遷座の必要性が、記紀の記述からはもう一つハッキリしない(大倭国魂神社の創建などはなおさら埋没している)。
自分の不勉強を棚に上げるようで恐縮だが、この件については、自称愛国者も反日売国奴も含めて、これまで、一度として納得のいく説明を聞いたことがないような気もする。
が、そもそも、同床共殿の神勅を授かっていながら、天皇が神鏡を皇居の外にお遷しするということは、畏れ多くもその神勅に背き奉ることになりはしないのだろうか? もちろん、倭笠縫邑への御遷座にあたっては、神鏡の「写し」が作られたことになっているが……それではそもそも神鏡を皇居の「外」にお「出し」したことにもならないのではないか?
つらつらおもんみるに、要するに、事の本質は、神鏡の「移動」ではなく、むしろこの「複製」のほうであり、その鏡を祀る皇女もまた天皇の「分身」ということになるのではないだろうか(斎王が天皇と「同格」の存在であれば、彼女が神鏡を祀りつづける限りにおいて、同床共殿の神勅に背くことにもならないし、こちらで書いた「行宮」「巡幸」の用法も正当化されうるかもしれない)。
それは、クニの統治者が、「ヒメ」と「ヒコ」という、同格の一対の男女によるツートップ体制を取って、それぞれの職掌を分担していたという、(どこまで実証されているのか知らないが)、古代日本に存在したとされている共立的統治形態と、同型の構造であるように思える。
Wikipedia:ヒメヒコ制祭政一致の時代。天皇はその両方の掌握者である(と観念されていた)。しかし、現実問題として、負担が大きすぎる。天皇自身は祭政の「政」に専念したい。だが、同床共殿の神勅がある以上、天皇自身による神鏡の祭祀をなおざりにするわけにもいかない。いっそ、身体が二つあればいいのに、というところだ。「分身」の創出こそは、そのジレンマに対する、もっともシンプルな回答ではないだろうか?
もしも、天皇と斎王が、「政」と「祭」を分担する「ヒコ」と「ヒメ」であるとするならば、(ちなみに崇神天皇の和風諡号はミマキイリヒコイニエノスメラミコトだったりもするわけだが)、この「分担」こそは、斎宮制度存立の根本条件ということになりはすまいか?
別の言い方をするなら、斎王が「祭」の主体であると同時に、天皇が「政」の主体でありつづけることを、斎宮制度はその本質において要請しつづけるのではないか?
もしも天皇が「政」の主体という地位から転落し、単なる「機関」や「象徴」として観念され、むしろ天皇こそが「祭」の主体であると観念されるようになっていくとしたならば、「祭」の主体としての斎王の存在は、天皇にそのお株を奪われ、空洞化せざるをえないことになるのではないだろうか。(ヒメとヒコが「分身」≒本質的に同じものであるとするならば、利益相反に陥りやすいことは、むしろ当然かもしれない)
あらためて歴史を振り返ってみよう。
事実において、天皇が「政」の主体的中心でありつづけた時代というのは、長くは続かなかっただろう。文字通りの「天皇親政」が常態だった時代、天皇が専制権力者・独裁者であった時代などというものは、古代史においても、滅多にないとさえ言えるだろう。「和」を以て貴しとなし、必ず群議によって「政」を行う体制こそ、わが国体の本質にして精華であるといって、大過はあるまい。(面倒なので立証は数ある愛国者様におまかせするが)
平安時代にもなると、こちらでいう「髫齓の天皇」の擁立さえも可能になり、ますます、天皇個人は「政」の実質からお離れになっていったとも言えるだろう。
いわゆる「君臨すれども統治せず」的な天皇の本質は、政治の実質においては、ある種の愛国者がいうごとく、「連綿」と続き、「一貫」しているとも言える。
しかし、政治においては「建前」もまた重要であろう。
大陸から輸入された律令制は、実質がどうあれ、建前上、天皇を政治の主体的中心として位置づけ続けており、だからこそ、藤原氏にせよ、平氏にせよ、天皇に寄生する形でしか「政」の実質を掌握することができなかったのだろうし、彼らがわずかでも油断し、かつ天皇にその意思と力があれば、親政の復活も不可能ではなく、また、譲位による院政という変則的手法も編みだすことが可能だったのではないか。
したがって、その内実においていかに蚕食され腐蝕していたとしても、律令国家の建前が維持されつづけている限りにおいて、「政」の主体としての天皇という「建前」は維持しつづけることが可能であり、同時に、「祭」の主体としての斎王という存在も(実質においては形骸化しつつもなお)その存立基盤を維持しつづけることが可能といえるのではないだろうか。
しかし、武家政権の台頭以後、「政」の主体的中心としての天皇という「実質」の蚕食は、さらに進行せざるをえない。事実において、「政」は将軍・幕府が担当し、(斎王ではなく)天皇こそが「祭」を担当するという、(現代の自称愛国者がよく口にする天皇陛下は祭祀さえ守ってくださればよいという)、権力と権威の分掌体制は、すでに不可逆的に進行してしまっている。
それでも、なお、鎌倉時代にあっては、幕府権力という制度が、史上初の試みだっただけに、当初は「安全運転」が続けられただろう。こちらで見たごとく、頼朝は表向き尊皇家であったし、征夷大将軍自体、建前上、平安時代にも存在した、律令国家の枠内の官職でもある。
幕府が北条に乗っ取られ、武家の内部にも不満が募っていくなかで、この「建前」の存続は、なお、現実的な政治性の契機としてかろうじて有効でありつづけたかもしれない。事実において、天皇は「政」から疎外されておいでになるが、それは本来あるべき形ではないはずだ……と。
承久の変にせよ、後醍醐天皇の挙兵にせよ、そうした、本来性の「建前」に大きく依存した行動だったのではなかっただろうか?
しかして、その後醍醐天皇こそが、伊勢斎王を卜定した最後の天皇となったことは、皮肉というべきか必然というべきか。。
本来、天皇こそが「政」の主体的中心であるべきはずだ、という「建前」を文字通り実行に移したのが建武中興。そして、見事に失敗したのが建武中興である(実は「失敗」などしていない、と、強弁する歴史家もいるかもしれないが、後世の見解ではなく、この場合、実際に歴史を動かしたのは同時代の見解)。
藪をつついて何とやら。天皇親政の現実的な挫折は、その根拠となる観念にもダメージを与えざるをえなかったのではないか?
すでに実質において「政」の主体的中心の座から転落していた天皇。現実の挫折によって、いよいよ、「建前」においてさえ、その座を失わざるを得なくなったのだとしたら……
その瞬間、ついに、斎宮制度存立の根本条件(「ヒコ」と「ヒメ」による「政」と「祭」の「分担」)もまた、名実ともに、崩壊したのではないだろうか?
もちろん、思想や観念だけで歴史が動くわけでもあるまいが……
建武中興の挫折によって、それこそ、政治的・軍事的・経済的にも、斎宮制度の維持困難性は増大したはずだろう。
天皇が二方存在されるということは、斎王も二人派遣されるのか? 派遣されるとすればどこに? 同じ伊勢の斎宮に南朝の斎王と北朝の斎王が仲良く同居するのか? そんなことが可能なのか? もしも不可能だとすれば、どうするのか? また別の場所に斎宮を造営するのか? 一口に斎宮といっても、こちらで見た通り、広大な方画地割を持つ、ちょっとした都市のような宮居なわけだが……南北朝の動乱期に、資金や課役やそして防衛は誰が負担するのか? そもそも可能なのか?
斎宮制度が、たとえどのような困難があろうとも維持されなければならない根本的かつ死活的に重要な制度である、と、観念されていたならば、それでも、斎王の派遣は続いたかもしれないし、一時は途絶したとしても、隙あらば復活させようと試みられたかもしれない。しかし、冒頭で書いた通り、そうはならなかった。能力的には復活も可能だったかもしれない明治維新期にさえ、ついに、復活されることはなかった。
それは、やはり、斎王・斎宮が、もはやそれほどに重要なものだとは観念さええなくなっていたことの証左であるとしか言いようがあるまい。
付け加えるなら、後醍醐天皇の御代といえば、渡会家行や北畠親房が、外宮の御祭神は天照大神〝ごとき”よりはるかにエライ宇宙の根源神だと、カルト的な主張を強めていた時代でもある。
日本のこころを探して:彼らにとって、内宮の神の末裔である聖女・斎王の存在は、どのようなものだったか? むしろ、目の上の瘤ではなかったのか? ならば当の伊勢においてさえ、斎宮復活どころのさわぎではなかったかもしれない。
・【動画】豊受大神宮 - 伊勢神宮 [外宮]
・【動画】神皇正統記1/2
・【動画】神皇正統記2/2
・北畠親房の仁賢天皇評
その後のなりゆきはどうか?
渡会神道は、南朝との関係を深めていったがため、以後、政治史の表舞台には登場しにくくなっていく。
伊勢神宮に代わって、室町時代以降に政治と癒着して大きな権勢を誇るようになっていく神道・神社は、こちらなどでしばしば言及してきた吉田神道・吉田神社であり、伊勢神宮とは不倶戴天の敵である。(つまるところ吉田神道もまた「伊勢」斎宮の復活への関心は薄かったはずだろう)。
その吉田神道も、幕府と癒着しすぎたがゆえに、江戸幕府の崩壊とともに勢力を失う。
そして、神武肇国への回帰(建前としての天皇親政)を叫ぶ明治維新において、再び、国家祭祀の宗廟として立て直されていくのが、伊勢神宮だが……
しかし、その明治政府にしてみても、立憲君主としての天皇とその宗廟としての伊勢「神宮」こそが重要で、伊勢「斎宮」の存在はさほど重視もしていなかった。どころか、そもそも視野に入ってすらいなかったようにも見える。
(つけくわえるなら、皇室の権威を前面に打ちだした明治政府にとって、肝心の内宮をないがしろにする渡会系のカルト思想もまた、無益なだけではなく、有害にさえ見えたかもしれない。新政府の面々が実際に何を考えたか、史料にあたったわけでもないので確言のしようもないが、明治時代以降、世襲神主の制度が廃止され、外宮を内宮の上位におくカルト的な思想が勢いを失ったことも、事実ではないだろうか)
結局のところ、近代的な立憲君主制の装いのもとで、天皇と臣下による輔弼・輔翼の観念が再整備されたのが、明治維新であり……その原型は、古代というより、むしろ、律令国家崩壊以後、武家政権と戦国動乱の時代のなかで形成されていった「権威」と「権力」の分担にこそ、直接のルーツをもっているのかもしれない。
「連綿と続く天皇の祈り」その観念自体に嘘もあるまいが。
その観念・その国体論が「再形成」されたのは、こうした、武家政権以後の歴史を踏まえた明治維新以降であることは、日本の歴史や伝統を論ずるうえで、注意が必要な陥穽であるように思う。
そうした武家政権以降の歴史から零れ落ち、忘れ去られていった(おそらく当の斎王たち自身によってさえどれほど自覚・実感されていたか疑わしい)、さらに古い時代に遡る、国家祭祀の根源にかかわる「ヒメ」の存在。
斎王・斎宮をめぐる歴史は、天皇の分身でさえありえたかもしれないそれら太古のヒメの残影をほのかに垣間見せてくれるのかもしれない。
(まあ、個々人としての斎王にはいろいろ面倒な事情もあったらしいが💦)
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象徴天皇の源流