2018年06月12日

【動画】 伊勢物語 第七十七段 第九十七段 第百一段


現代の感覚で本文を読んでも今一つピンときませんが、こちらで書いた通り、第六十九段をはじめとする伊勢の斎宮をめぐる物語群は、「伊勢物語」の構成上の(あくまで「構成」の上からの)転回点・ターニングポイントになっているように思います。
同じ二条の后の物語でも、第六十九段の前(第六十五段)と後(第七十六段)とでは、話の趣がまるで違っていることも、こちらで書いた通り。
また、その第七十六段以降は、二条の后以外の物語においても、なまめいた恋愛譚(もっというなら性愛譚)が中心だったそれ以前とは打って変わって、葬送や、長寿の祝や、誕生や、出家や、といった人生の諸相へのまなざしが前面に出てくるように思います。
その変化・対照のわかりやすい例として、摂関家の人々にかかわる(第七十六段以降の)章段を、いくつか覗いてみたいと思います。
こちらで軽くチェックしたように、在原業平に擬せられる昔男の若かりし日の二条の后との直情的な恋愛譚においては、「対立」構造が垣間見えていましたが……第七十六段以降においては、さて?



一口に藤原氏、北家、摂関家といっても、全員が仲睦まじかったわけでもなく、一族の内部にもライバル関係があったことは言うまでもありません。後宮における皇子出産レースなどは特にそうです。(有名どころでは清少納言の仕えた中宮定子と紫式部が仕えた中宮彰子など。それぞれの父親(道隆・道長)が兄弟です)

藤原多可幾子の父は藤原良相(冬嗣五男)、藤原明子の父は藤原良房(冬嗣次男)、
つまるところ従姉妹同士ですが、共に文徳天皇の女御となり、それぞれの父の権勢のため(皇子を生むため)、後宮においてはライバル関係になったとも言えます。

そして、多可幾子の兄弟は藤原常行、明子の義兄弟は藤原基経。
この二人も同い年の従兄弟同士ですが、同年に蔵人頭に任官したのを皮切りに、以降、出世を競い合うライバル関係になるようです。

しかし結果的に文徳天皇の寵愛を勝ち得、惟仁親王(清和天皇)の母となったのは、多可幾子ではなく、明子。
いきおい、兄弟の出世レースにおいても、常行は基経に一歩及ばず終わるようです。

さらに付け加えると、基経の妹・高子(二条の后)が清和天皇の女御となったのと同様、常行のもう一人の姉妹・多美子もやはり清和天皇に入内していますが……多美子はまもなく病没し、陽成天皇の母となったのは高子のほう。
ここにおいても、基経側の勝利に終わったと言えるのかもしれません。

この多可幾子の葬儀にあたって、常行の求めに応じて、「右の馬の頭なる翁」が、挽歌・弔歌を詠んだというのが、上の第七十七段。
山のみな移りて今日にあふことは 春の別れをとふとなるべし
常行と「右の馬の頭なりける人」との交友は、次の第七十八段においても言及されており、一口に藤原北家とは言っても、業平に擬せられる昔男、常行との関係は悪くはなかったのかもしれません。

しかし、それでは、基経たちとは、仲が悪かったのか?といえば、さて、どうでしょうか。

藤原常行は、貞観17年(西暦875年)二月に薨じています。享年四十歳。
当然、藤原基経も、その同じ年に四十歳になっています。
この四十歳というのは、平均寿命の短かった当時においては、老年の入口とも言える節目の年だったのでしょうか。(実際、常行は亡くなっているわけですし)
古典文学にはしばしば「四十の賀」が盛大に行われる様子が描かれていますが……
その基経の「四十の賀」にも、「中将なりける翁」は、チャッカリ、お祝いの歌を贈っています。


「堀川の大臣」というのが、基経のことですが、こちらで見た有名な芥河の段にも登場し、昔男の恋路を邪魔した「鬼」の一人が、この「堀川の大臣」でした。
その「鬼」のために、当の昔男が詠んだ歌。
桜花散り交ひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに
桜花よ、飛び散り、空をかき曇らせろ、「老い」がやってくるという道が見えなくなるほどに(大臣のもとへ老いがやってこないように)……というほどの意味でしょうか。
いったい、どういう心境で、「鬼」の長寿を願うのか。
単なる社交辞令か、
恩讐の彼方にでも到達したか、
そもそも二条の后との恋物語など単なるフィクションであるからして、史実においては、最初から相互に含むものなどありはしない。その実在の業平の歌が、物語の中にまぎれこんで、微妙に不協和を起こしているのか?
いずれにせよ、一途な恋に目がくらんで権力者の元から女性を誘拐するほどの、芥河の青年の破滅的な情熱からは遠い、「大人の態度」というべきかもしれません。同じ業平に擬せられる主人公について、そのような描き方が行われうるようになったのが、第六十九段を経たあと、第七十五段以降の「翁」の世界であるようにも思えるのです。

なお、昔男のモデルとなった在原業平は通称を「在五中将」とも言いますが、その業平が右近衛権中将に叙せられたのも、この同じ貞観17年正月の除目だったようです。
朝廷の有力者であり人事権も掌握していたであろう基経や良房の意向が、この任官にも作用していたのかどうなのか?
wiki情報で恐縮ですが、
Wikipedia:在原業平
当時の藤原氏以外の貴族と比較した場合、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と、実状には相違点がある。
とも書かれているようです。

伊勢物語といえば二条の后との悲恋、としか覚えていない向きには、意外な史実かもしれません。また、伊勢物語は所詮フィクションにすぎない~とさかしらに言いたがる向きにしても、業平が基経のために賀歌を詠んだエピソードが、当の「伊勢物語」本編にしっかり収録されていることをちゃんと押さえたうえでドヤ顔をしているのか?

さらに言うなら、基経だけでもありません。
上の動画に同時収録されている第九十八段には太政大臣≒藤原良房も登場しています。
この九十八段については、主人公は「仕うまつる男」とあるだけで、別に業平に擬せられているわけでもありませんが……
その少し先の第百一段になると、「在原の行平」の「はらからなる」男が、「太政大臣の栄花のさかり」に「藤氏の栄ゆるを思ひて」歌を詠んでいます。


三尺六寸にも及ぶ見事な花房を持つ「藤」の花に寄せて、
咲く花の下にかくるる人おほみ ありしにまさる藤のかげかも
というのですから、摂関家に対する阿諛追従と受け取られても不思議はない一首に思えます。それとも、裏に別の意味でも隠されているのか?
こちらで見たロミオとジュリエットばりの対立構造の物語を踏まえてみれば、それこそ「など、かくしもよむ」と問い詰めたくなるところかもしれません。


以上、藤原北家の人々が登場する章段のいくつかを見てみましたが……

この他にも、惟喬親王や紀有常、藤原敏行、在原行平など、業平に近しい人々との交流譚も豊富に収録されているのが、第七十六段以降の世界であり、それ以前のなまなましい性愛譚(ゆきてねにけり)一辺倒の世界とは趣を異にしていることは、確からしく思えます。
二条の后の物語に比べると、ぱっと見のドラマ性は見劣りがするかもしれませんし、有名な物語群というわけでもないかもしれませんが……
恋愛一辺倒のある意味単調な世界に比べて、より幅も広く、奥行きも深い情趣の数々が描かれ、詠われるという意味では、より成熟した「歌」の世界が展開するのは、むしろこちらのほうではないのか、という気さえしないことはありません。まあ、そのあたりは個人の好き好きですが。(単に当方が年を取っただけかもしれませんしねぇ……💧)
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在原業平―雅を求めた貴公子
在原業平・小野小町―天才作家の虚像と実像
藤原良房・基経:藤氏のはじめて摂政・関白したまう
posted by 蘇芳 at 21:35|  L 「伊勢物語」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする