2018年06月10日

【動画】 伊勢物語 第六十五段 → 第七十六段


こちらで見たように、「伊勢物語」冒頭数段、二条の后の物語は、物語類型の上からも普遍的に劇的で、なるほど人気があるのもうなずけますが、そこをあまりに重視しすぎると、肝心の「伊勢」の意味がよくわかりませんし、そもそも伊勢の国にたどりつくことさえ難しくなりそうです。
かといって、こちらで触れた第六十九段(~七十二段または七十五段)は、舞台は確かに伊勢ですが、それ単独で読むだけでは、二条の后に匹敵するほどの劇的な魅力とか面白さというものが、今一つハッキリしません。
どうやら、第六十九段にはじまる伊勢篇の意味を考えるには、その前後にまで視野を広げてみる必要がありそうです。
そこに何が描かれているか?
二条の后の再登場と、物語のトーンの変化です。

第六十九段に先立つ第六十五段で、再び、業平(に擬せられる昔男)と、大御息所のいとこ(二条の后高子)の、若かりし頃の失恋が、あらためて再話されます。
この章段自体は教科書等に採録されることもあり、それ自体としては有名でしょう。
しかし、この二番煎じの物語が、第六十九段の直前に配置されていることは、学習指導要領的に、どれほど意識されているでしょうか。
その配列の意味はもちろん、配列自体にさえ、全体を通読しなければ、気づきにくいかもしれません。


ここで、業平(に擬せられる昔男)は、流罪に処せられ、「人の国」をさすらうことになっていますが……
さらにつづく第六十六段では津の国への赴任、第六十七段・六十八段では和泉の国への逍遥、と、流罪ではありませんし、「昔男」も業平を暗示するほどの説明もありませんが、複数の「旅」の物語が配列されています。
失恋からの旅、という、この流れ自体、形の上からは、かつての「芥河」~「東下り」の展開の再現であると、言って言えないことはないでしょう。

そして、このくりかえしの後に配置されている物語こそ、こちらの第六十九段にはじまる、伊勢を舞台にした一連の章段です。
第七十段は、斎宮にお仕えする女童に贈った歌、
第七十一段は斎宮の御所の女房との歌のやりとり、
第七十二段は伊勢の国なりける女(恬子内親王を暗示しているようでもあるが明示はされず)から男へ贈る歌、
を収録。
ここまでは明確に伊勢を舞台にしています。
つづく第七十三段と第七十四段は舞台は明示されていませんし、登場する女性も、「そこにありとは聞けど、消息だに言ふべくもあらぬ女」とあるだけですから、恬子内親王のこととも二条の后のこととも受け取れますし、また別の女性のことだと解釈する余地も残りますが。
第七十五段は、「世にあふことかたき女」に、男が一緒に伊勢の国に行こうと誘って断られるという物語ですから、少なくともこの「女」が(すでに伊勢にいる)恬子内親王でないことは確かであるにしても、「伊勢」の地へのこだわりが見られるという意味では、一連の伊勢をめぐる物語群に数えてもよいのかもしれません。

いずれにせよ、伊勢の斎宮をめぐる物語群は、わざわざ若い頃の二条の后との恋物語を再話し、その後の旅をも連想させたうえで挿入されているのであり、その挿入を経たうえで、次の第七十六段では、あらためて二条の后が再登場するのですから……しかも、伊勢物語全体のトーンはそこで大きな転調を迎えているのですから、この一連の章段の配列には、明確に意図的なものが仕組まれていると言わざるをえないように思えるのです。


まず何より注目すべきことは、ここで業平(に擬せられる昔男)が「翁」≒老人として登場していることでしょう。
これは単に女性の気を引くために卑下しているとかいうことではなく、実際に年老いていると見てよいようです。
というのも、この後も、業平(に擬せられる昔男)の「翁」表記は継続しますし、第七十九段では兄の行平に孫(貞数親王)まで生まれていますから、業平もまたそういう世代(御祖父方なりける翁)になっている/なりつつあるということでしょう(もっとも、貞数親王については「時の人、中将の子となむ言ひける」という一文がわざわざ挿入されていますから、世間的にはまだまだお盛んだと思われていたのかもしれませんがw)

伊勢物語といえば、「いちはやきみやび」というのでしょうか、一から十まで恋物語、恋の歌で埋め尽くされているようにイメージされがちかもしれませんし、それもあながち間違ってはいないかもしれませんが、少なくとも、伊勢の斎宮をめぐる一連の章段を経た後は、(他の男女が詠んだ恋歌が収録されることはあっても)、「翁」となった昔男自身が、現在進行形のなまめかしい・なまなましい・なまぐさい恋物語の主役として登場することは、ほぼなくなっていきます。
(二条の后だけでなく、恬子内親王に対しても、再び歌を贈る章段はありますが、その時点で内親王は出家しており、今さら男女の仲がどうこうというような、なまめいた内容ではないようです)。
しかも、こちらで見たように、若かりし日の二条の后の物語の背景には、皇位継承をめぐる派閥抗争の存在が感得されるわけですが、伊勢篇以後の老境にあっては、それら摂関家の人脈とも、特に軋轢のようなものが暗示されることもないようです。(第九十七段では堀川の大臣(藤原基経)の四十の賀に「中将なりける翁」が祝いの歌を贈っています)
要するに、伊勢の斎宮をめぐる一連の物語を経た後は、和歌の分類でいうなら、それまでの相聞歌の世界にかわって、挽歌や賀歌、雑歌などの世界へと、伊勢物語全体のトーンが、大きく転化しているのではないでしょうか。

近代的な合理的な心理描写に慣れた現代人の目には、あの第六十九段の一夜の密会の物語(しかも肉体関係的には未遂とも取れる)が、なぜ、どういう脈絡で、昔男の心境を変化させたのか、ピンと来ないのですが……
各章段の配列、全体の構成という面から見れば、若者の激しい恋の世界から、円熟した「翁」の世界へという、この全体のトーンの転回点として位置づけられているものこそ、伊勢を舞台にした一連の物語、もっというなら伊勢の斎宮・伊勢神宮という道具立てであるようにも見えなくはないのです。

そういえば、伊勢物語を強く意識しているだろう源氏物語においても、伊勢の斎宮という道具立ては、六条御息所の愛欲の終焉のために導入されていました。
仏教色の強い源氏物語におけるほどの罪悪感や強制力は、伊勢物語においては希薄かもしれません(神のいさむる道ならなくに)が……それでも、やはり、恋に惑う苦しみの季節を終わらせるために、伊勢神宮が意識的に導入されていることは、同様ではあるのかもしれません。

上の第六十五段で業平(に擬せられる昔男)が詠んだ有名な歌は、
恋せじと御手洗河にせしみそぎ 神はうけずもなりにけるかな
でしたが……
あにはからんや。やせてもかれても伊勢神宮。さすが日本の総氏神。実はすぐにはそれと気づかぬような自然な形で、しっかり、御利益はあったのかもしれません?

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二条の后藤原高子―業平との恋
斎宮の文学史
伊勢斎宮と斎王―祈りをささげた皇女たち


追記:
源氏物語は周知のとおり仏教色が強く、六条御息所の伊勢への下向も、(本来は神道であるはずですが)、心情的な覚悟のほどは、「出家」とかわらないほどの悲壮なニュアンスがあるように思いますが……
伊勢物語の場合、そこまで劇的なニュアンスや、愛欲を罪悪視する感性は希薄であるようにも思います。
「恋せじと」といっても、神様に祈って何とかしていただこうというのですから、決意の出家に比べれば、ずいぶんと他力本願で無責任ともいえますし。
そもそも、仏教が罪悪視する「欲望」は男女間の肉欲だけでもありませんが、伊勢物語の昔男が、それら す べ て の欲望を断ち切ろうと努力した、という形跡はありません。
そもそも「翁」になってなまなましい愛欲の主体ではなくなった、ということなら、それは「努力」を要する主体的な「行為」ですらないようにも思えます。
意識的人工的な努力ではなく、巧まざる自然が、彼をそこに導いていく。
そして導かれた先で、念仏三昧というわけではない、ちゃんと相変わらず賀歌や挽歌や雑歌など、恋愛以外の歌は詠みつづけているのですから……愛欲だけではない、さまざまな人生の哀歓へと目を向けることができるようになった分、ある意味、恋愛だけに視野狭窄していた青二才の日々よりも、はるかに豊かな円熟の季節を迎えていると言って言えないことはないかもしれません。
肉欲の意識的「断念」ではなく自然な「卒業」、人生の「厭離」ではなく、その哀歓への共感。
私の読解力が日本人として何ほど正しいものかは知りませんが、源氏物語に働いている神秘力がホトケ様のそれであるとするならば、伊勢物語で作用しているそれは、なるほどよりカミサマ的なものかもしれない、とは、感じられるかもしれないような気がしないでもありません。
posted by 蘇芳 at 16:18|  L 「伊勢物語」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする