2018年05月27日

「やまとごゝろ」と「大和魂」

しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花(本居宣長)
かくすれば かく なるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂(吉田松陰)
詠み人を明記する必要すらなさそうなレベルで有名な二首。
自称保守や自称愛国者の一定数は、無邪気に、この両方が両立するものと思っているらしいし、私自身、そういう捉え方で安易な記事を書いたこともあったかもしれないが……
しかしそもそも、これら「やまとごゝろ」と「大和魂」が両立するというのは、本当だろうか?

こちらでも書いたけれど、国学者の本居宣長に「散る桜」の美学を見るのは、端的に、誤解ではないだろうか。
そういう誤解は自称現代のサムライ()に多い気がするが、そもそも、源氏物語の女々しい御公家様に「もののあはれ」を見出す国学の、どのあたりがブシドーなのだろうか?

吉田松陰ならば、まだわかる。
何度もテロを企てては失敗し、高杉や久坂にさえ距離を置かれたこともある、過激な儒学者の「大和魂」は、確かに維新の志士の心酔すべき扶桑日の本のサムライの魂かもしれない。

しかし、そういう急進的で暴力的な儒学の過激性こそは、こちらなどで書いた通り、本居宣長の国学が最も嫌った「からごころ」ではないだろうか。

「やまとごゝろ」と「大和魂」、
実は似てもにつかぬ、どころか対極的でさえあるかもしれない概念を、私たちは、耳触りの良い俗説に乗せられるまま、深く考えもせず、ふわっとした情緒で以て、ゴチャ混ぜにしてはこなかったか?
和歌に対して何を野暮なと言われるかもしれないが……「情緒」に溺れる前に、一度は、「論理」において、整理してみるべきではないだろうか。

「やまとごゝろ」と「大和魂」。思想信条は自由なのだから、別に誰がどちらを信奉してもかまわないし、あるいはもしかすると本当に両者は両立するのかもしれないが。
少なくとも、自分が何を信奉しているのかくらいは、理解したうえで信奉したいし、両立なり何なりの主張も、双方の区別を理解したうえで主張したいし、してほしい。

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からごころ - 日本精神の逆説
ラベル:儒教 国学
posted by 蘇芳 at 14:45| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする