2018年05月05日

【動画】01.大正天皇の御集『おほみやびうた』について


本題は源氏物語の講義らしいですが。
話に入る前の雑談、といった風情ですか。
話者は「おほみやびうた―大正天皇御集」の編者でもある岡野弘彦さんですね。
ちなみに國學院大學名誉教授であるうえ、「君たちが、日本のためにできること―大学生に伝えたい祖国との絆」にも寄稿しているような人のようです。アカくはないということでよいのかしら??


動画概要:
2016/11/04 に公開
源氏物語全講会 第23回 「夕顔」より その1

収録日 2002年10月10日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)
講座名 平成14年秋期講座

大正天皇の御製については当ブログでも何度か拝誦したことがあります。
【動画】「御製から見る日本」第9回 知られざる大正天皇のご活躍 〜文化継承のために〜
かつうすれ行く
若鮎さばしる
当方、和歌のことはサッパリわかりませんので、巧拙を論じることはおろか、内容を正確に把握することさえおぼつきませんが……
それでも、やはり、大正天皇の御製の肌触りのようなものが、明治天皇とはだいぶ趣をたがえていることは、確からしく思われます。

それは和歌が上手いとか下手とかいうことではなく、そもそもそれ以前に、題材を見る目、扱い方、和歌に対するスタンス、などなど。「感性」「個性」そのものの違いがあらわれているように感じるのです。

あるいはそもそも、(「天皇に私なし」とも言うそうですが)、「天皇」の御製にそのような「個性」が感じられるということ自体、特殊なことかもしれません。

動画の岡野弘彦氏による「おほみやびうた」の解説には、ドナルド・キーンが明治の歌会始における御製・御歌を論じた次の文章が引用されています。
これらの和歌には、詠み手の感情や個性がほとんどうかがわれない、いや皆無と言っていい。天皇と皇后は、過去千年間の無数の宮廷歌人とまったく同じ作法で春の喜びを歌っている。言い回しや言葉の影像に独創を取り入れようという意図などまったく無い。韻律的に正確なこれらの和歌を詠むことは、伝統的な宮廷文化に精通していることを示すにとどまった。
歌会始を「個人の作品発表の場」としてしかとらえることのできないのは、いかにも外国出身のキーン氏らしい「限界」なのかもしれませんし、岡野氏も「現代人の常識」の域を一歩も出ない(出ようとすらしない)キーン氏の無理解に対して、「視野を広く溯らせて、日本文学の古代から展望してくると、また違った日本人の心のありようが見えてくる」と反論しています。
これらを見ると、天皇がその御世始めや年の始めに求婚歌、恋歌を歌うことによって、その活力がその地方の人間や穀物の稔りや、家畜の上にまで活性化をおよぼすと信じられ、年初に丘の上から発する「八雲立つ出雲八重垣」「かぎろひのもゆる家群」「国原は煙たちたつ」などという国見、国ぼめの咒詞によって、その国の一年の平和と幸福がもたらされると信じられたことが察しられる。
本来そういう重い集団的な影響力を期待されている天子の年頭の儀礼歌の宿命として、毎年々々個性ある創作的内容が歌い出されるということは本来ありえないはずである。
そこにあるのはいわゆる「近代」的な「他の誰でもない〝この”私」の自意識ではなく、むしろ、「他のすべての天皇と同じ天皇である朕」という集合的同一性であるように思えます。数ある天皇の御製の中でも、特に儀礼色の強い年頭の歌会始の歌をつかまえて、「詠み手の感情や個性」を要求するというそのこと自体が、そもそもない物ねだりの的外れだということになるようです。

もちろん、天皇も人の子であらせられますから、年がら年中四六時中、一切の個性を発揮されないということでもないでしょう。歌をお詠みになるときも、ふと「個性」をおのぞかせになることも、あるには違いありません。しかし同時に、明治天皇や昭和天皇の御製を拝誦していてしばしば感じるのは、それが他でもない天皇の歌であり、天皇以外の何人も決してそのようには歌を読むことはできない、という感覚です。

明治天皇の有名な御製、
さしのぼる朝日のごとく さわやかに もたまほしきはこころなりけり
は、(そもそも発表を念頭に置いていない独白ですから)、明治天皇ご自身の自戒の御製であるのかもしれませんが、日本人たるもの、やはり、どうしても、国民に対するお諭しのありがた~い御歌として、襟を正したくなってしまうのではないでしょうか。
あるいは、
こらは皆 軍のにはにいではてて 翁やひとり山田もるらむ
を拝誦すれば、国民の苦難に御心を寄せ、宸襟を悩ませられる、ありがたい大御心が身にしみるのではないでしょうか。

天皇も人の子であらせられますから、年がら年中四六時中、一切の個性を発揮されないということでもないでしょう。しかしそれでもなお、年がら年中四六時中、一挙手一投足を、可能なかぎり、「天皇であること」に徹しようとされたのが、明治天皇であり、数々の御製にも(何を見て何を詠んだとしても)「天皇の歌」としての性格が強く刻印されているように感じられます。
(逆説的に言えば、「公」に徹したその「無私」の姿勢こそが、明治天皇の「個性」でもあったのかもしれません)

それに対して……

大正天皇にも、もちろん、天皇として公のお立場でお詠みになった御製はあります。
おごそかにわれを守ると軍艦葉山の海に今日もかゝれる
われを待つ民の心はともし火の數かぎりなき光にもみゆ
國のためたふれし人の家人はいかにこの世をすごすなるらむ
とくいえて皆もとの身にかへらなむいたで負ひたる武士のとも
餘りにもふる梅雨のはれずして思ひやらるゝ民のなりはひ
しかし、「おほみやびうた」を通読して、それ以上に印象に残るのは、目に映る景色や物事を鮮やかに切り取り、直叙した、数々の叙景歌のようにも(個人的には)思います。
風たえししだり柳に朝霞かゝるとみれば春雨ぞ降る
山百合の花もうつれる谷川のいはまを鮎ののぼり行くみゆ
夕立のすぎにし池のはちす葉に涼しくのこる露のしら玉
雪はれて月かげきよみしろがねのつくり花ともみゆるうめかな
引用しだすときりがありませんが……
「しだり柳」に「春雨ぞ降る」など、どこの〝わびさび”かという情景ですし、夕立のあと池の蓮の葉に「涼しくのこる露のしら玉」というのもいかにも絵に描いたような情景でしょう。
「鮎」については、大正天皇が実際に何度か鮎漁をご覧になったことがあることを、こちらで確認したこともありますし、そのような行啓を国見といえば言えるのかもしれませんが……谷川を遡上する鮎の生命感に心を躍らせ、歌に詠みたくなってしまうというのは、千年の昔からくりかえされてきた「天皇」の儀礼というよりは、もっとすなおに、他の誰でもない「私」の経験と言った方が適切であるようにも思えます。
きわめつけは、雪景色の中で月明かりに照らされて輝いた梅が、「しろがねのつくり花」のように見えるという、歌人の感性でしょうか。そこに詠まれているのは、「ありがたい天皇様の大御心」ではなく、他の誰でもない「私」のささやかな個人的感動であるように思います。

私ごときに和歌の巧拙はわかりません。大正天皇の御製も、必ずしも独創的だったり上手な歌というわけではないのかもしれませんが……

古代から連綿とつづく「天皇」のおほみ手ぶり、だけではない。今ここに他の誰でもない一回きりの「個」として存在する「私」の感性を、大正天皇の御製はしばしば垣間見せている(かもしれない)ようには思えるのです。
そういう意味では、歌人・詩人の「作品」という、近代的な感覚で接しやすいのが、「おほみやびうた」であるとも言えるのかもしれません?

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posted by 蘇芳 at 21:19| 大正 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする