2018年04月13日

素朴な疑問


本居宣長の、
しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花
を日本のこころだ大和魂だという人は多いしそれはそれでよいのだけれど。それを武士道だとか言いだす人がチラホラいたりするのを見ると、はて?と素朴な疑問を感じないこともない。
儒教のからごころを批判したのが宣長だが。そもそも武士道とかいうものは、儒教を排除して成立するものなのか。宣長を武士道精神のヒーローのごとくもてはやすのは錯覚ではないのか、と。(そこに横たわるあまりに深遠すぎる思想やテツガクや論理の襞が、私ごとき低能では理解できないだけだというならよいですが)

江戸幕府の公式学問が朱子学だったことはいまさら言うまでもありませんが。
幕府に対して乱を起こした大塩平八郎も朱子学ではなく陽明学ですが、いずれ儒学者には違いありません。
乃木希典が崇拝した「中朝事実」の山鹿素行も儒学者ですが。山鹿といえば陣太鼓。つまり忠臣蔵もこの流れ。
会津武士道の規範とも言うべき「家訓」を遺した保科正之が心酔したのが儒学者の山崎闇斎だったことはこちらなど随所で述べてきたとおり。同じリンク先で言及した黄門さまは水戸学の発展に貢献しましたが、水戸学というのも、一番のベースになっているのは儒学でしょう。
Wikipedia:水戸学
水戸学(みとがく)は、江戸時代に日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された政治思想の学問である。儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもの。
黄門さまの仏教嫌いについてはやはりこちらなどで言及してきましたが、その情念の根底には、神道だけでなく儒教的な道徳観念も伏在しているのかもしれません。
そういえば、当ブログで何度も引用している、同じく仏教嫌いの頼山陽の次の発言も、仏教の罪悪を(やはり儒教的な)「君臣の義」を破壊したことに見ているように思いますが、
我が邦は君臣の義、万国に度越す。而るに西竺の説、これを壊り、これを土灰沙塵に帰して止む。而してその端を開く者は、厩戸・馬子なり。
頼山陽「日本政記
この頼山陽もまた、元々は朱子学研究からスタートした儒学者だったでしょう。

これらの〝からごころ”をケシカランというのは思想信条の自由ですし、その〝からごころ”を排除したところに大和心があるのであって、その大和心に回帰せよというならそれはそれで筋が通っていますが、その大和心がすなわちブシドーである、というのは、微妙に筋が通らないようにも思います。
幕末の志士に影響を与えたという頼山陽や、尊皇攘夷の水戸学や、武士の鑑の忠臣蔵や、神武肇国の昔に帰れと叫んだ大塩平八郎の乱が、儒教の〝からごころ”に根差しているというのなら、そもそも、江戸時代の武士道と大和心とは、どういう関係にあるのか? そもそも何か関係があるのか?

冒頭の宣長の歌が、「散る桜」の情緒と結合して、散華の美学のように受け取られるようになったのは、わりと近代のことのように思いますが……
こちらで引用した軍人勅諭の次の一節なども、
古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて、時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと、大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき。中世に至りて、文武の制度、皆唐國風に傚はせ給ひ、六衞府を置き、左右馬寮を建て、防人なと設けられしかは、兵制は整ひたれとも、打續ける昇平に狃れて、朝廷の政務も漸文弱に流れけれは、兵農おのつから二に分れ、古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り、遂に武士となり、兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し、世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち、凡七百年の間武家の政治とはなりぬ。世の樣の移り換りて斯なれるは、人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから、且は我國體に戻り、且は我祖宗の御制に背き奉り、浅間しき次第なりき
「兵馬の權」が「武士ともの棟梁たる者に歸し」た武士の時代を、「我國體に戻り、且は我祖宗の御制に背き奉り、浅間しき次第」として、否定しさっているように見えなくもありません。

徴兵制にもとづく古代の国軍が分裂解体して発生した私兵集団が武士であるなら、明治維新は、そうした「私」の武力を否定して、再び「公」の武力としての国民軍の回復を目指したとも言えるのではないでしょうか。
にもかかわらず、なぜ、その時代にあらためて、武士≒私兵の道徳が、再び脚光を浴びたのか?
武士道が良いだの悪いだのという浅薄な勝ち負けの話ではなく、素朴な「疑問」として、問い直しておく必要はあるように感じます。

〝からごころ”を排除して、残ったものが〝大和心”なのか? 純粋な〝大和心”だけを取りだすことは可能なのか? 良くも悪くも〝からごころ”もまた〝大和心”の構成要件ではないのか? それは思想の混乱なのか、堕落なのか、あるいはむしろ豊饒なのか? 考えだすと、何やらヤヤコシイ予感もするのです。

なお、桜マニアの本居宣長。冒頭の一首以外にも、
1 いとはやも高根の霞さき立て櫻さくへき春は来にけり
2 あらたまの春にしなれはふる雪の白きを見ても花そまたるゝ
3 春霞たつより花もいつかはと山端のみそなかめられける
4 いつしかともえ出る野への若草も櫻またるゝつまとなりつゝ
5 とくさけや櫻花見ておふなふな心やるへき春はきにけり
・・・
などなど、夥しい数の桜の歌を詠んでいるそうで……
そこで詠まれているのは、何も「散る桜」だけではない。「咲く桜」もあれば、まだ咲かぬ桜もあり。別に武士道だ何だと肩肘をはった歌ばかりではない、本当に桜が好きでたまらないだけの、ほほえましい歌も多いように思えます。
そもそも、「櫻史」の山田孝雄などに言わせると、いわゆる散り際の美学というのも、別に日本〝古来”の伝統というわけでもない、という話にもなるらしいですしね。。

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武士道の誤解 捏造と歪曲の歴史を斬る
本居宣長の大東亜戦争
ラベル:儒教 国学
posted by 蘇芳 at 16:19| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする