2018年01月30日

権威と権力


前回書いた通り、承和の変とは、仁明天皇の御代に、恒貞親王が廃太子され、道康親王が立太子された事件。
道康親王の生母は藤原良房の同母妹。すなわち道康親王は、良房から見れば甥にあたる。
したがって、外戚としての権力確立を目論む藤原氏の陰謀~というのが通説であり、事実、そのとおりでもあるだろう。
しかし同時に、(これも前回書いた通り)、仁明天皇にとって、恒貞親王は従兄弟だが、道康親王は皇子であることも押さえておく必要がある。
恒貞親王を廃して、道康親王を立太子することによって、藤原氏は外戚として国政をほしいままにできる一方、仁明天皇は実子に皇位を継承させることがおできになる。
要は両者の利害は一致しているし、その「一致」のゆえに、事件は発生し、かくもスムーズに展開したのではないか。

もちろん、その一事を以て、直ちに、両者の間に事前謀議があったと断定することはできない。良房の独走を、天皇は追認されただけかもしれないと考えてみることはできる。
しかし、事後であれ事前であれ、仁明天皇が、事件の結果をすぐに承認されていることは事実である。事件の発生は承和9年7月17日、恒貞親王の廃太子は同月24日。「続日本後紀」で廃太子の詔が収録されているのは、さらにその前日の23日である。事件発生から一週間と経たずに結論が出されている。摂関家がゆるぎない権力を確立したあとならまだしも、この時点で、かくもすみやかに天皇に藤原氏の意思を「強制」できるものだろうか?
何より、承和の変は、淳和上皇が承和7年に、嵯峨上皇が承和9年7月15日に崩御されたあと、たちまちに発生している。この狙いすましたようなタイミング自体に、恒貞親王の後ろ盾が誰であり、また、誰でなかったかが、透けて見えるのではないだろうか。

以上のような経緯であるとすれば、前回引用した頼山陽のごとき儒学者が、道徳的に眉をひそめるのも、一応はもっともかもしれない。
しかし、また、歴史上の人物に対する「道徳」的な非難というのは、そうそう安易に行うべきものではないし、そもそもそのような非難というものは、非難の対象について以上に、非難する本人の料簡について多くを明らかにするものでもあるだろう。要するに、現代のわれわれからして見れば、江戸時代の儒学者もまた、歴史上の人物なのであるからして、仁明天皇に対する彼の道徳的非難についても、御説ごもっともと鵜呑みにする前に、それ自体、歴史上の出来事として、検討してみる必要がある。

前回引用した頼山陽の文章をもう一度引用しておく。
それ父子相承くるは、常道なり、公儀なり。叔禅り姪立ち、逓々相推奪するは、豈に常となす可けんや。仁明、誠にその子を立てんと欲せんか、淳和の再三辞するに当り、何ぞ明白に稟受せずして、必ず二上皇の死を待たん。私心と謂ふ可きなり。
論者以為らく、王室の衰ふるは、文徳、幼主を以て嗣となすに由ると。余は則ち曰く、仁明の、私を継嗣の際に用ふるに由るのみと。文徳の時に至りては、則ち藤原氏の勢、已に成る。然らずんば、文徳、何を以てか、敢て愛する所の長子を立てずして、生れて甫めて九月の嬰児を立てんや。
頼山陽「日本政記
上の引用は、仁明天皇の二枚舌、「私心」を難詰するもので、まさに「道徳」的な非難と言えるだろう。
しかし、下の引用は、単にそれだけにとどまらない。「王室の衰ふるは」とあるように、その後の歴史に関する評価が語られている。

強引に補って意訳というか超訳すると、〝通説では摂関家が国政を壟断し皇室の勢いが衰えてしまったのは、生後九か月の幼児を皇太子に立てた文徳天皇が原因だと言われているが、「余(≒山陽)」に言わせるとそうではない。すでに文徳天皇の父・仁明天皇が「私心」を以て皇位継承をもてあそんだときから、いやその時にこそ「王室の衰へ」は始まっていたのだ。何となれば、文徳天皇の御代にはすでに藤原氏の権勢は完全に確立されており、天皇といえども言いなりになるしかなかった。でなければどうして「愛する所の長子(惟喬親王?)」をさしおいて生後9か月の嬰児を皇太子に立てたりするだろう。(しかし仁明天皇の御代なら、藤原氏の勢威もまだそれほどではなく、その気さえあれば抵抗することもできたはずだ。しかし仁明天皇はそうはなさらなかった。つまるところ文徳天皇は心ならずも藤原に従われたのだが、仁明天皇は進んで藤原と結託されたのだ)”…………というところだろうか?

注意すべきは「王室の衰ふるは」というフレーズだろう。
頼山陽にとって、摂関政治全般が、「王室の衰」であって、嘆かわしいものである。ならば、その端緒を開かれた天皇が批判されるのは当然というものだろう。
しかし、摂関政治全般を、日本の国柄に合った優れたシステムと見なすなど、別の評価もありうるのではないか? もしもそうした評価に立つのならば、その場合は、そのシステムの基をお開きになった天皇は、むしろ名君ということになるかもしれない。

「日本政記」を通読して感じる頼山陽の天皇観は、すこぶる政治的なものであり、権力的なものである。
政治・軍事の実権を握る政治権力者としてのそれが、彼の天皇像における根本イメージのようだ。
(実際、頼山陽が高く評価する天皇は、「親政」の意志や実績をお示しになった天皇ばかりのような気がするし、その親政において失策があれば「政治家」に対するような批判も躊躇していなかったように思う)
そして、その「権力」の実質が臣下に奪われ、天皇の「権力」が形だけのお飾りになってしまったことを以て、「王室の衰」と見なす。
摂関家や武家は、言ってしまえばその「簒奪」の主体であり、だとするなら、摂関政治や武家政権は、天皇国日本にとって、本来あるべき姿ではない、異常な政治形態である、ということにもなるわけだ。

まことにシンプルでわかりやすいし、いかにも幕末にベストセラーになりそうな内容ではある。
何となれば、もしも真の尊皇家が存在して、上のような認識を持つのならば、そのような「異常」な政権は、当然、否認されなければならないし、皇室の「勢」を回復するために彼が目指すべきは、天皇に「権力」の実質を奪還するという意味においての「王政復古」以外にないことになるだろう。
白黒のはっきりした単純素朴な認識だけに、ワン・フレーズ・ポリティクスと相性がよさそうだ。

実際、明治政府自身にしてからが、軍人勅諭のように、教育レベルの様々な兵士たちに「わかりやすく」語りかけるときには、
古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて、時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと、大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき。中世に至りて、文武の制度、皆唐國風に傚はせ給ひ、六衞府を置き、左右馬寮を建て、防人なと設けられしかは、兵制は整ひたれとも、打續ける昇平に狃れて、朝廷の政務も漸文弱に流れけれは、兵農おのつから二に分れ、古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り、遂に武士となり、兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し、世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち、凡七百年の間武家の政治とはなりぬ。世の樣の移り換りて斯なれるは、人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから、且は我國體に戻り、且は我祖宗の御制に背き奉り、浅間しき次第なりき
という「わかりやすい」言い方をしたこともある。
それは明治政府のタテマエではあったのかもしれない。

しかしながら、明治時代における天皇陛下の「権力」の「実態」はどうだっただろう?

江戸時代において、軍人勅諭的な素朴な政治権力的な意味での「王政復古」を観念した尊皇士族は、明治政府の実態には、むしろ裏切られたと感じ、維新の「やりなおし」をさえ求めるようになったのではなかったか。
萩・秋月の乱や西南戦争は、唯物的な側面からのみ語られることが多いが、儒学・国学取り交ぜて幕末尊皇思想の異議申し立てという側面も、その根底にありはしなかっただろうか?
島崎藤村「夜明け前」の青山半蔵は、「平田篤胤没後の門人」という国学の徒であり、それゆえにこそ維新の欺瞞性に憤慨し、過激派に身を投じて断罪されるのだ(もちろんこれは小説ではあるが、実在のモデルがいることは言うまでもあるまい)。

私たちは、尊皇思想が高まって維新が起きた~と教科書的に丸暗記させられたが、その明治維新が実は〝素朴”な尊皇思想に対する「裏切り」でもあったとすれば、「偉大なる明治」の実態と、素朴な尊皇思想のタテマエとのズレ――すれっからしの尊皇思想と単純素朴な尊皇思想とのズレ――は、どこにあったのか?
一応、考えておいてもバチは当たるまい。
そして、事が「尊皇」思想に関することだとすれば、そのズレは、「天皇」のイメージのズレのなかにこそ、把握することができるのではないか?

当ブログ的には今さらクドクドというまでもないことだが、こちらこちらこちらなどなど、あらためて参照してみてもよい。
昭和の御代に侍従次長を務めた木下道夫氏は、著書の中で、ドイツ人「ヘルマン・ロレスエル」が考案した憲法草案の、
天皇ハ神聖ニシテ不可侵ナル大日本帝国ノ主権者ナリ
という一条から、井上毅が、その後半をごっそりと削除し、
天皇ハ神聖ニシテ不可侵ナリ
と改めた挿話に言及している(「宮中見聞録―昭和天皇にお仕えして」)。
明治政府がその叡智を結集して日本の「コモンロー」のなかから見出した天皇像は、政治「権力」の主体ではなく、君臨すれども統治せず(この言い方にも翻訳の弊があるのだろうが、人口に膾炙しているので使っておく)式の「権威」であり「象徴」としてのそれであっただろう。
この「権力」と「権威」の区別を自覚するとしないとの差こそが、すれっからしの尊皇思想と単純素朴な尊皇思想とを分かつ、重大な岐路である。と言っては、いけないだろうか?

そもそも、天皇を、政治的「権力」の実質的行使者である、と見なすのならば、当然、その行動には「政治的責任」がつきまとうことになるだろう。
しかして、統治者の政治的能力というものは、遺伝するものだろうか?
はたまた、もしも遺伝や英才教育によって、「能力の世襲」が可能だったとして、現実政治の成功は、「能力」だけで完全に保証されうるものだろうか?
世襲の天皇家に、常に、必ず、優れた政治家が生まれつづけると、保証できるわけのものでもない。また、どれほど優れた政治家であっても、現実政治において、常に、100%完全に正しい選択をしつづけることなど、土台、できるはずもない夢物語だろう。
つまるところ天皇に政治的権力の実質的行使を求めれば求めるだけ、天皇の「失政」の可能性はそれだけ高まり、失政に伴う責任追及の危険も同様に高まるのだ。
政治的権力者としての天皇に文字通りの「親政」を求めるということは、天皇をして血なまぐさい権力闘争の参加者たれと要求することであって、それ自体、天皇の特権的超越性をかえって剥奪することになりかねない。

たとえばもしも、こちらで言及した正親町天皇が、今谷明の言う「権威」の担い手ではなく、政治的「権力」者にすぎなかったとしたら、どうだろう? 当時は何しろ戦国時代である。単なる「政治的権力者」なら、戦国大名という名のそれが、掃いて捨てるほどいただろう。天皇もまた一人の政治的権力者にすぎなかったとすれば、当時掃いて捨てるほどいたそれら戦国大名たちと、本質的には大差ない存在でしかないことになる。その程度のチンケな存在に、
一一歳のとき(大永七)将軍以下の出奔と柳本賢治らの入洛、一九歳のとき(天文五)天文法華の乱(下京焼亡)、三三歳(天文一八)のとき三好長慶の入洛、践祚翌年(永禄元)には将軍義輝が亡命先から入洛、四五歳のとき(永禄四)六角義賢の上洛、四九歳(永禄八)のとき将軍義輝の暗殺、と数限りない武家社会の有為転変を経験し
さらにそのうえ織田信長の上洛、足利義昭の没落、明智光秀の三日天下、豊臣秀吉の天下統一、そのすべてを見届けたうえで、ついには日本中の大名たちの拝跪を受けるに至る、などという離れ業が、可能だったはずがあるだろうか?
正親町天皇が世俗的「権力」者の一人にすぎなかったとすれば、朝廷存続の条件は、足利将軍、信長、秀吉、その他その他、すべての世俗的権力者との、政治的・軍事的闘争に勝利すること、自ら天下人たること以外になかったのではないだろうか。そんなことが可能だったとは思われないし、よしんば可能だったとしても、それはもはや私たちが知る「天皇」ではないのではないか。(チャイナの「皇帝」ならそれでよいだろうが)

天皇の本質が世俗的権力者ではないことにこそあるのだとすれば……

世俗的政治権力の行使を臣下にゆだね、なおかつ、その権力の上に権威として君臨することを、安定して可能ならしめるシステムの成立は、「王室の衰へ」どころか、むしろ、1000年の安定の根拠とさえなりうるかもしれない。
そして摂関政治は、ある意味、その嚆矢ではなかっただろうか?
頼山陽は「生れて甫めて九月の嬰児」を立太子(さらにその後は九歳で即位)したことをお笑い草のように非難するが……裏を返せば、天皇が九歳の子供であっても国政上さしさわりがないほどに堅固な統治体制が確立したとも言って言えないことはないし、かつまた、同時に、そのシステムの存続には、(たとえ九歳の幼主であろうとも)「天皇」の君臨が絶対的に必要不可欠なのだ。
つまるところ、(先日の信長もその一例だが)、天皇を「利用」すればするほど、天皇への「従属」もまた深まっていく。
これは、権威と権力の共依存的な関係が、統治システムとして具体化された、国政上の画期であるようにも思える。

摂関政治以来、時の権力者が、事あるごとに朝威・朝権を制限しようと企て、天皇がそれに抗うという事態は、確かに何度もくりかえされてきたし、理念として「親政」が、時によっては実質においても「親政」が希求されたことさえないではなかったが……
それでもなお、時の権力者にとって、朝威・朝権こそが、彼らの「権力」を保証してくれる唯一至上の「権威」でありつづけるかぎり、「王室の衰へ」をもたらすことはできても、「王室の滅亡」はむしろ断固として回避しなければならない自滅の道であることもまた、間違いのない事実ではないだろうか。
江戸幕府もまた、素朴な尊攘運動や天皇「権力」との対決において敗北したのではなく、天皇という「権威」に対する依存性のゆえに、自滅のスパイラルに陥ったのではなかったか。(参照:【読書】藤田覚「幕末の天皇」

仁明天皇の二枚舌を「道徳」的に批判することはたやすいが、しかし一方、「権威」と「権力」の分業を長期間持続可能な政治システムとして確立した摂関政治開幕の歴史的評価については、もう少し慎重であってもよいのではないだろうか。
何しろ、「権威」と「権力」の分業という点については、摂関政治だけにかぎらず、形は変われど、平氏政権も幕府体制も受け継いでいるとも言えるのだ。そのすべてを「王室の衰」で片づけるのは乱暴にすぎようし、まして仁明天皇御一代の個人的責任に帰すのはそれこそあまりに「単純素朴」すぎるというものだろう。
(そういう「単純素朴」な性急さこそ、儒学者らしいといえば言えるのかもしれないが)
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posted by 蘇芳 at 22:24|  L 「続日本後紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする