2018年01月29日

承和の変


承和の変と言えば橘逸勢とでも穴埋めしておけばそれで正解というクイズみたいな歴史教育が行われていなければよいが。
そこまで酷くなくても、平安時代の政変といえば、とりあえず「藤原氏の他氏排斥」と言っておけばそれですんでしまう風潮が強いような気がしないこともない。
学術文庫版「続日本後紀」の訳者・森田悌にしてからが、そのまえがきで、
仁明朝の一大政治事件である承和の変は、当時中納言であった藤原良房が企謀した疑獄事件の様相が濃厚である。良房が淳和天皇皇子である恒貞親王の皇太子位を廃し、同母妹順子の所生である道康親王の立太子を図ったと云ってよく、北家による擅権体制確立への基盤作りの一環であった。
と書いている。
しかしこの「淳和天皇皇子である恒貞親王」と「同母妹順子の所生である道康親王」という対照は、正確な対偶になっていないのではないか。前者は「天皇の皇子(男系)」だが、後者はあたかも「藤原氏の子供(女系)」であるかのような、ニュアンスのバイアスがある。「淳和天皇皇子である恒貞親王」に対して、なぜ、素直に「仁明天皇皇子である道康親王」と書かないのか?

こうした表現自体、要するに藤原氏の外戚化という面からのみ事件を把握する凝り固まった観点の所産であるようにも思えなくもない。
もちろん、別にその見方が間違いというわけではないだろう。
しかし日本は藤原氏の国ではない。どこまでも皇国(すめらみくに)である。にもかかわらず、事がその皇国の皇位継承にもかかわる事件だというのに、研究者がただひたすら「藤原氏の歴史」以外の何物でもないかのような語り口にのみ終始するのだとしたら、若干の違和感はある。

前置きが長くなったが……

Wikipedia:承和の変

洋の東西を問わず「骨肉の争い」というのはくりかえされてきたが、「骨肉の争い」といわれると、ついつい「親子」「兄弟」の争いを真っ先に連想してしまう、というのも、洋の東西を問わない通弊かもしれない。
実際にはそれ以外にも様々な血縁関係があるわけで、その関係間に争いが起こることも珍しくはないはずだが、どうもキャッチフレーズ的に「骨肉相食む」などと言われてサマになるのは、やはり、親子・兄弟という先入観が強いのかもしれない。
しかし、たとえば「兄弟の子供」は、つまり甥であり姪なのだ。実際には、親子・兄弟という「骨肉」周辺にも、たちまち、叔父・伯母・甥・姪・従兄弟といった関係が派生しうるし、それら親族同士が争いの当事者になることも珍しくはないだろう。

思いつくままに挙げてみれば……

雄略天皇(允恭天皇皇子)に殺された市辺押磐皇子(履中天皇皇子)は天皇の従兄弟である。
蘇我馬子に弑逆された崇峻天皇は馬子の甥であり、その後を受けて践祚された推古天皇は馬子の姪であるし、用明天皇の皇子である聖徳太子は推古天皇から見ればつまり甥にあたる。
治世の後半に関係が冷え込んだ孝徳天皇と中大兄皇子(天智天皇)も叔父・甥であるし、何より、古代史最大の内戦・壬申の乱の当事者も、叔父・大海人皇子(天武天皇)と甥・大友皇子(弘文天皇)である。
ちなみに、兄(天智天皇)が、我が子(大友皇子)可愛さをゴリ押しして、弟(大海人皇子)を退ける、という、壬申の乱の原因となったこの構図は、後世、平安時代に実質的な終幕をもたらした保元の乱の摂関家や、室町時代に実質的な終幕をもたらした応仁の乱の将軍家と、ほとんど同じである。(参照:【動画】保元の乱①乱にいたるまで
古今東西、こうした争いの「パターン」は、おそらく枚挙に暇がないのだろう。

(追記:ついでに言うと冒頭で名前を挙げた橘逸勢は橘奈良麻呂の孫だそうだが、その奈良麻呂を死へ追いやった藤原仲麻呂も、光明皇后の甥であり孝謙天皇のいとこであり……そしてそのいとこによって乱から死へと追いやられていくわけだ)

承和の変における皇族間の血縁関係もまた、整理してみると、叔父・甥、従兄弟の相克という「パターン」が、意外と目についてくるのではなろうか。
(「意外」というより、冒頭で述べたように、皇子の母方の出自以前に、「本来」、あからさまに表面に現れてくるのはむしろこの父方の血縁のほうではないのか、という気もする)

第五十代桓武天皇のあと、その皇子たちのうち、三人が順次天皇の御位におつきになってゆく。
(過去に、仁徳天皇の三人の皇子(履中天皇・反正天皇・允恭天皇)や、欽明天皇の四人の皇子女(敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇)が、兄弟間で皇位を継承されたようなものか)

第五十一代平城天皇、
第五十二代嵯峨天皇、
第五十三代淳和天皇、
この三方はご兄弟。

第五十四代仁明天皇は、この三方のうち、第五十二代嵯峨天皇の皇子。
つまり第五十三代淳和天皇から見れば、にあたる。

そして仁明天皇の御代の最初の皇太子恒貞親王は、冒頭で見た通り、第五十三代淳和天皇の皇子。
つまるところ、仁明天皇ご自身から見れば、従兄弟にあたる。

ヤヤコシイが……

時系列順に整理すると、
嵯峨天皇(兄)が淳和天皇(弟)に譲位、
淳和天皇(叔父)が仁明天皇(甥)に譲位、
仁明天皇(従兄)が恒貞親王(従弟)を皇太子に指名、
後、
仁明天皇(従兄)が恒貞親王(従弟)を退位させ、
仁明天皇(父)が道康親王(子)を立太子した、
というのが、つまり承和の変の結末であるとも言えるわけだ。

藤原北家視点で語るのももちろん結構ではあるが、
一方、仁明天皇のお立場からすれば、

従兄弟OUT、息子IN、という……

わりとわかりやすい話でもある。

六国史の四番目、「続日本後紀」というのは、仁明天皇の一代記であって、その冒頭は、叔父の淳和天皇が甥の仁明天皇に譲位しようとし、仁明天皇がさんざんにこれを固辞し、固辞しきれず践祚を承諾されたあとは、叔父淳和天皇の皇子である恒貞親王を皇太子にすると宣言され、淳和天皇が何度もそれを固辞しようとされるという……記紀の昔から何度もくりかえされてきたまことに麗しい「譲り合い」の場面から始まるのだが、その結末が、結局コレか、となると、微妙に索漠たるものを感じないでもない。

ちなみに、
それ父子相承くるは、常道なり、公儀なり。叔禅り姪立ち、逓々相推奪するは、豈に常となす可けんや。仁明、誠にその子を立てんと欲せんか、淳和の再三辞するに当り、何ぞ明白に稟受せずして、必ず二上皇の死を待たん。私心と謂ふ可きなり。
論者以為らく、王室の衰ふるは、文徳、幼主を以て嗣となすに由ると。余は則ち曰く、仁明の、私を継嗣の際に用ふるに由るのみと。文徳の時に至りては、則ち藤原氏の勢、已に成る。然らずんば、文徳、何を以てか、敢て愛する所の長子を立てずして、生れて甫めて九月の嬰児を立てんや。
頼山陽「日本政記
などなど……戦後の反日パヨク歪曲史観に拘束されない江戸時代の史論などは、現代の自称愛国者・尊皇家・国士様などよりも、はるかに仁明天皇に手厳しかったりもするようだ。
(頼山陽の史観も講談レベルと言われたりするものではあるが……こちらをはじめ当ブログでは時々書くように、いわゆる尊皇の志士にも影響を与えた幕末のベストセラー作家ではある。戦後生まれの私たちは、どんなに「目覚めた」つもりでも、義務教育時代からつづく反日パヨク唯物捏造史観が、無自覚の先入観となってしまって、なかなかそこから抜け出せない、ということも、往々にしてありがちだろう。そんな先入観を軽く揺さぶってみるには、戦後反日勢力と無縁な、異質な史観に触れてみるのも、一法であるようには思うのだ)

何にせよ、藤原氏による「裏」での策動について云々するのは、まずもって「表」にあらわれた、このわかりやすい皇位継承争いの構図について押さえたうえで、さらに一歩踏み込んで次の段階、というのが、物の順序というものではないだろうか。
冒頭の引用のように、「天皇の皇子(男系)」と「藤原氏の子供(女系)」を並び称しているようでは、二つの観点が混線して、かえって全体の見通しが悪くなりかねないように思う。

それを踏まえたうえであらためて、藤原の(母方の)血筋について見てみれば、
道康親王(文徳天皇)の生母が、良房の同母妹であることは、冒頭引用のとおり。
つまり「母方」の血筋で言うならば、道康親王(文徳天皇)は良房の甥であるとも言えるわけだ。
これを要するに、かつて崇峻天皇や推古天皇が、蘇我馬子の甥であり姪であったのと、同じ「パターン」の再現であろう。
歴史はくりかえすというべきか。かつて蘇我を討った鎌足の末裔が、蘇我の二番煎じを演じようというのだから、むしろ皮肉というべきだろうか。

しかしながら、幸いというべきか、幸か不幸かというべきか、叔父・甥・従兄弟という、この後継争いの「パターン」が、この場合は、天皇弑逆や大化の改新はもちろん、壬申の乱や保元の乱や応仁の乱のような災厄にも発展はしなかった。
安定期へと向かう時代背景もあるだろう(死刑が廃止されていたという指摘もある)、彼我の力量の絶対的な格差もあるだろう。
長期的に言うなら、藤原氏が、蝦夷・入鹿の増長に陥らず、皇室の「陰」に徹したという見方もできるかもしれない。
つまるところ、仁明天皇御一代にとっても、その後の摂関政治全体を通じても、蘇我氏の昔とは違って、摂関家と皇室の利害はおおむね一致していた、のだろう(その仁明天皇にとっての「利」というのが、つまり、上で見たような父子継承の実現であるということか)。

そして、また、こと承和の変それ自体に関しては、良房たちが、それだけ周到・巧妙だったということも、言えるかもしれない。
事件のタイミングひとつ取ってもそうだ。

淳和上皇の崩御は承和7年5月8日
嵯峨上皇の崩御は承和9年7月15日
そして承和の変の発生は承和9年7月17日、恒貞親王の廃太子は同月24日。
上の頼山陽の引用にも「二上皇の死を待」って云々とあるように、二上皇が相次いで崩御され、恒貞親王の後ろ盾がなくなるや、瞬く間に手を打った、早手回しのお手本のような手際である。
首謀者は通説通り藤原良房に間違いもないだろうし、ここから藤原北家がいわゆる「藤原摂関家」の地位を確立していくこと、お見事としか言いようがない。

しかし、また……

皇位継承争いにかつてはかくも水際立った介入ぶりを示したその摂関家が、やがて、保元の乱の当時には、上でも言及したように、摂関家自身の後継争いに醜態を演じ、「平安時代」そのものの終焉を迎えることにもなってゆく。因果はめぐるというべきか、あるいは歴史の皮肉とでもいうべきか。あるいはこうした劣化こそ「末期症状」というものなのかもしれない。
Amazon:
続日本後紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本後紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
【関連する記事】
posted by 蘇芳 at 22:35|  L 「続日本後紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする