2018年01月27日

自称上総介


こちらで書いたように、織田信長というのは、表面的な行動においては、意外なほど尊王家としての事績が目立つ人物です。もちろん、その行動が本心からのものだったか、打算にもとづく猿芝居の類だったかといえば、議論の余地はあるでしょうが。
平泉澄や田中義成など、いわゆる皇国史観寄りの戦前の史家は、本心からの尊王家と見たがる傾向が強いらしくもありますが、戦後は「もちろん」皇室の権威を利用するための猿芝居にすぎなかったと断ずる向きが多いでしょうか。

平泉澄の独りよがりはかなりイカガワシイ面もあるようですが、その師・田中義成になると戦前の第一流の実証史家であって、足利義満の皇位簒奪説をいち早く唱えたほどの慧眼の士。そうそう無視もできない、と、今谷明などは書いています(今谷明「信長と天皇 中世的権威に挑む覇王」)
ところで、田中義成氏の尊王論に対し、信長の行実の表面だけから判断を下した皮相な見解である等と、むげに退けることは早計であろう。田中氏といえば、炯眼にも義満の簒奪意図を見抜き、〝天位窺窬”に相違なしとして、いち早く指摘したその人に他ならないからである。したがって、田中氏が単なる戦前という時代風潮に左右されて織田勤皇史観を唱道したといった、単純な構図でないことだけはたしかなのである。
もちろん、かくいう今谷明自身は、こう前置きしたうえで、信長の行動を丁寧に検証し、決して本心からの尊王家ではなかったと主張はするのですが。
かといって、義満のように皇位簒奪の野望を抱いたなどということもなく、信長の最終的な政権構想は、やはり、幕府(≒天皇の臣下)としてのそれだったのだろうと推測しています。

尊皇家だから尊皇事績を残したというだけなら、要は単なる同語反復であり、個人的資質に還元してオシマイですが……実際には尊皇家ではない人物が、それでも、天下取りのために功利的に尊皇家としてふるまった、ふるまわざるをえなかった。のだとすれば、そこには、単なる個人的資質に還元するだけではすまない、複雑な動機や経緯・構造を想像する必要が生じ、かえってそのほうが、皇室の権威の底知れなさを実感しやすいかもしれません。

結局のところ、皇室を功利的に利用しようとするならば、皇室の権威を高めれば高めるほどその利用価値も増大するわけですが、皇室の権威を高めれば高めるほど、同時に、その「権威」に自らも呪縛され、逆らえなくなっていく、という……こちらで江戸幕府について考えてみたようなジレンマから、信長も、やはり、自由ではいられなかったのではないでしょうか。

信長の尊皇事績についてはこちらでいくつか挙げてみましたので、今回は逆に、信長の不敬事案を一つ挙げてみるとすれば……信長の名乗った肩書のなかで、特に有名な「上総介」というのは、朝廷の許可など何一つ得ていない、単なる「自称」であり、言ってしまえば「僭称」です。

他の戦国大名も似たような僭称をしまくっていて、それが戦国期のスタンダードだったのだとすれば、それまでの話ですが……
今谷明の前掲書等によると、どうも、そういうわけでもないようで。

戦国時代、武家が騒乱に明け暮れ、まともな税収もあがらず、皇室も公家も窮乏していたことはよく知られていますが、では、そうした貧乏貴族は、どのようにして食いつないでいたのか? 「窮乏」とか「衰微」とか、想像力のかけらもない無味簡素な教科書的表現で片づけてしまえばそれまでですが、本当に本物の「窮乏」なら、究極、飢えて死ぬのです。貧乏貴族も結局は生きながらえているのですから、何らかの収入の道はあったわけでしょう。私的な荘園経営や家産の切り売り、大名からの私的な寄付や献金など、いろいろ考えられはするでしょうが、一つには、歌・毬・華・香等々、戦国大名を相手に王朝文化を伝授するアルバイトのようなものが、大きな収入源になっていたようです。もちろん、そうして出来上がったコネクションは、諸大名と朝廷との仲介斡旋等、さらなる収入にもつながったのでしょう。
当時田舎下りをした京都の貧乏公卿は、どこへ行っても諸大名の優遇を受けた。近隣の諸勢力と、激しいサバイバルゲームを展開していた彼ら大名は、天皇から官位を叙任され、公家から京都文化を伝授されることで自らのステータスシンボルとして周囲に対抗しようとした。逆にこのような装飾をしなければ、大名仲間の相手にされなかったのである。小田原城を割取して関東制覇に乗り出した北条氏綱が、旧勢力の上杉・佐竹から〝他国の凶徒”と嘲罵されたため、朝廷から北条の姓を受け、伊達稙宗・武田信虎と同じ左京大夫の官位を受けたことが何よりもその間の事情を物語っている。好むと好まざるとに拘らず、そうせざるを得ないのである。〝式微”と称され、没落の淵に瀕していたかのように見られる天皇制を、最も必要とし、その維持と権威の昂揚を助けたものは、信秀ら地方の戦国大名であった。
当時京都の公家の許へは、地方の大小名から、その城郭の命名(――城という城の名である)や軍旗の文字の揮毫を依頼してくる人々が絶えなかった。また宸翰の古典籍を万金を投じて入手し、蘭奢待などの勅賜の名香に随喜の涙を流さんばかりの大名も決して珍しくなかった。
さて信秀は、この後急速に尾張統一に乗り出し、同時に朝廷への財政援助を惜しまない態度をとって、天文一〇年(一五四一)には朝廷の懸案であった伊勢外宮仮殿造替費を独力で負担し、この朝賞として後奈良天皇から三河守に任ぜられた。後年今川義元も徳川家康も三河守に叙任されているが、室町幕府の守護職が形骸化した戦国時代にあっては、この王朝からの国司受領は分国支配の正統性を保障する唯一といってよい手段であった。

父・信秀や、北条、今川、徳川など、今にその名が伝わる戦国大名が、こぞって朝廷への貢献を競い合い、おそらくは仲介者に多額の謝礼なども払いながら、朝廷の官位官職を求めたなかで、そんな権威をありがたがるなどバカバカしいとばかり、猟官運動に一銭もかけず、上総介を「自称」してすませた信長の行動は、やはり、自らのみを頼む高慢の類であったように思いますし、朝廷何するものぞという高慢はやはり「不敬」でもあったのではないでしょうか。

しかしその信長も、やがては朝廷の利用価値に目覚めたのか(今谷明の前掲書では特に上の引用にもある家康の三河守任官が信長に認識を改めさせた大きな契機だったと主張するようです)、まもなく朝廷の官位官職を積極的に求めるようになり、弾正忠をはじめ参議、権大納言、右近衛大将、内大臣、右大臣、と、上りつめていくのはよく知られる通り。
(「副将軍」の地位を固辞したり、晩年には三職推任問題などの「謎」もあるようですが、いずれ、マキャベリスティックな政治的都合で解釈可能な話でしょう。むしろ、義昭の下風に立たないための工夫とか、皇位継承に介入しようとしたとかいう推測が成り立つとすれば、それこそ、信長が朝廷の権威や建前の利用価値をそれだけ重視していたという傍証にさえなるのかもしれません)

そうして上り詰めていけばいくほど、それほどに利用価値の高い朝廷の権威を、自らの手で蔑ろにして見せることは、自分で自分の権勢の根拠を攻撃することになりかねないわけで……
便利な道具と思っていた朝廷の、その便利さの下僕として、さしも信長も、いつしか囚われていったのでしょうか。
信長はかつて若年の折、上総介を僭称したり、入京後はかたくなに弾正忠を固執するなど、官途に対して意固地を見せていたこともあったが、自身が参議に昇って以降は、ふっ切れたように、律令的官位体系を積極的に容認、奨励する方向を採っている。このことは、反面で信長が天皇のペースに無意識にはまり込んで行くことをも意味するもので、正親町天皇からみれば、実は大いに歓迎すべき事象にほかならなかったのである。
(前掲書)
恐るべし正親町天皇、と申し上げるべきか。あるいはむしろ、正親町天皇御一代に限らない、畏るべきは「天皇」そのもの、というべきかもしれません。
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戦国時代の貴族―『言継卿記』が描く京都
織田時代史
ラベル:戦国 織豊
posted by 蘇芳 at 21:09| 戦国~織豊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする