2018年01月23日

【動画】神武天皇陵


こちらに参拝する機会があれば、当然、ぜひこちらにも……というところか。





動画概要:
1)2014/08/30 に公開
畝傍山(うねびやま)の北東の麓、橿原神宮に北接する神武天皇陵は、円丘で周囲は約100m、高さ5.5mの広い植え込みがあり、幅約16mの周濠をめぐらせています。
日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる神武天皇(在位:前660年~前585年)は日向(宮崎)地方から、瀬戸内海を東に進んで難波(大阪)に上陸しましたが、生駒の豪族に阻まれたため、南下して熊野に回りました。そこで出会った3本足の「八咫烏」(やたがらす)というカラスに導かれて、吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて、大和地方を平定しました。そして、紀元前660年の1月1日に橿原宮で即位し、初代の天皇になりました。

2)2013/02/22 に公開
神武天皇祭_1 神武天皇陵 2006年4月3日
かしはら探訪ナビ:神武天皇陵

橿原神宮は明治の創建ですが、御陵は当然それよりずっと古いわけで。
たとえば「日本書紀」天武天皇の元年にはすでに神武天皇陵参拝の記述が見られます。
先是、軍金綱井之時、高市郡大領高市縣主許梅、儵忽口閉而不能言也。三日之後、方着神以言「吾者高市社所居、名事代主神。又身狹社所居、名生靈神者也。」乃顯之曰「於神日本磐余彥天皇之陵、奉馬及種々兵器。」便亦言「吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。」且言「自西道軍衆將至之、宜愼也。」言訖則醒矣。故、是以、便遣許梅而祭拜御陵、因以奉馬及兵器、又捧幣而禮祭高市・身狹二社之神。
もっとも、朝廷が衰微した武家政権の時代には、御陵の多くが長らく放置され荒れ果てていたとも言いますし、その間、御陵の被葬者がわからなくなって、あらためて比定されたりした事例もあるわけですが💧
Wikipedia:天皇陵 > 修陵
幕府がどうあれ武家がどうあれ、地元の住民は大切に御陵をお守りしていたという話などもあるようで、少なくとも修陵を志した尊皇の士の存在したこととあわせて、せめてもというべきでしょうか。

何にせよ、ご先祖様を粗末にするとバチが当たるというのは、何も日本人に限らない、まっとうな倫理観を持つ民族にはわりと広く見られる感覚ではないかと思いますが……
日本人の総本家、御皇室の御先祖くらいはきちんとお祀りしたいものですし、本格的な祭祀は皇室にお任せするにしても、私たち一般国民も「お墓参り」くらいはさせていただいても罰は当たらないと思うのです。

ちなみに竹田恒泰曰く、
『古事記』に登場する夥しい数の氏族は、そのほとんどが、遡れば何らかの神に行き着くことになっている。先ず、天照大御神の子孫は歴代天皇と皇族だけではない点から述べていきたい。
次に、この他にも無数の氏族が、例えば、須佐之男命や大国主神を始めとする、天照大御神とは別系統の神の系譜につながることが記されている。『古事記』は、かように数百もの氏族が、遡れば神の系譜に辿り着くと記述しているのである。
それらの数多の氏族の子孫が、近現代の日本の人口に占める割合を考えれば、日本国民の大半に及ぶことになろう。両親が二人、祖父母が四人、曾祖父母が八人であるように、十世代遡れば先祖は一〇二四人、二十世代遡れば先祖は一〇〇万人を超える。かつては結婚が早く、長く見積もって一世代を二十年と見ても、二十世代は僅か四〇〇年前に過ぎない。そこからさらに二十世代遡ったとしたら、その一〇〇万人の先祖一人ひとりにさらに一〇〇万人ずつ先祖がいる計算になる。およそ一世紀のうちに外国から渡って来た者を除けば、二〇〇〇年遡っても先祖のうち一人も『古事記』が記す数百の氏族の系譜につながらない日本人は、確率論的にほとんどいないといえる。
とか何とか……
国民皆親戚。
ある意味これこそが神武天皇の唱えた「八紘為宇」の直接の帰結なのかもしれません。
まっとうな日本人が全国民にとっての「総本家」の「初代」をお慕いすることに、何のはばかるところもないのではないでしょうか。
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posted by 蘇芳 at 20:34| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする